日蓮聖人の映像制作委員会(法話付き)
10月22日は日蓮聖人が寺泊御書をしたためられた御聖日( ..)φこの日に合わせて新潟県における「佐渡法難」日蓮聖人のご足跡を継承する為に
「映像を作成しよう!」青年僧の有志一同が立ち上がり寺泊法福寺様の祖師堂をお借りして初の会議を行いました(^^)/やっぱり膝を突き合わせないと決まらない話がありますね!『寺泊御書』今から生きては帰ることは出来ない「流罪の地」佐渡に向かわれるご自身の心配ではなく土牢に入れられた日朗聖人や鎌倉に残してきた弟子・信徒を思いしたためられた「寺泊御書」
法華経の信仰に厳しい一面や、弟子信徒を思う優しいお気持。日蓮聖人が何を思いどう感じられていたのか?
その様な心境が伝わる映像を作り上げようと思います( `ー´)ノ日本海の荒波。750年前のお祖師様を思い浜辺に車を止めて…文永8年(1271)10月21日の夕方、日蓮聖人は寺泊の津に着きました。津とは港のことで渡航する船着き場がある所を指します。寺泊付近には「渡戸駅」(わりへ・わたりへ)と言う港があり、ここから直線距離にして46キロの佐渡ケ島の松崎駅へ向かうのです。古来よりここが「流罪人」が佐渡へ渡るルートでした。現在の暦で言うと11月末。冬の季節風が容赦なく吹き付け、海は大荒れの時期です。
日蓮聖人はここ寺泊で筆を執り、旅路の様子などを鎌倉のお弟子さんや檀越たちへ知らせるべく、この『寺泊御書』と呼ばれるお手紙をしたためられました。書き上げられたのが「10月22日酉の時(午後六時)」。日本海(北海)の海鳴りを聞きながら御執筆だったのではないでしょうか?
冬以外には佐渡へ渡る漕ぎ手も2人で良いのだそうですが、この冬の季節は8人の漕ぎ手が必要だっと伝えられます(中尾堯氏「日蓮」)。日蓮聖人は6日間、海上の天気が良くなるまで、この寺泊に逗留されました。『これより大海を亘って佐渡の国に至らんと欲するに順風定まらず、その期を知らず』(いよいよ日本海の大海原を渡って佐渡へ向かおうとしているが順風が定まらず、いつ渡れるか見当がつかない)と示されます。
『寺泊御書』は、早くから日蓮聖人に帰依した有力な檀越、富木常忍氏に宛てられたお手紙ですが、この中で受難こそが末法の時代の「法華経の行者の証」であることを述べられます。幕府に捕縛され「流罪人」となった日蓮聖人には弟子・檀越の中からも聖人の布教姿勢に疑問が沸き起こりました。彼らの動揺は大きいものがありました。その頃のことを日蓮聖人は後に振りかえられて『千人のうちの九百九十九にものぼる信仰の退転者が出た』と述べられます。この『寺泊御書』の余白には『心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし』(鎌倉に居る志がある方々は皆で集まって、この手紙を聞いて欲しい)と書き添えてあります。富木常忍氏以外にも読み聞かせて、よく理解して欲しいと言う日蓮聖人の細やかな心遣いが感じられるのです。(※この部分は現在の御真蹟には残念ながら失われています。)
また、これから佐渡へ渡るというご自身の境遇を省みず、鎌倉で聖人と共に捕まり、土の牢にいまだ囚われの身となっているお弟子さんのことを案じられ、彼らの様子と安否を知らせて欲しいと伝えています。
日蓮聖人を我が身として受け止めたならば…。どんな気持ち境遇だったのでしょうか?色々なことが心に感じられました。