井上久助

井上久助(いのうえきゅうすけ)

井上家久助の父『八左衛門正実』母『芳巳』。初代新発田藩主『溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)』公に仕官し、戦場を馳駆した功臣でした。 新発田藩時代は700石を賜り、在中の役目を果たしていたとのこと。その後、息子の久助が5歳の頃に病の床に倒れて亡くなりました。
秀勝公はこれを心の底から深くなげき痛み、まだ幼かった久助に跡目を継がせる事にし、一族郎党すべての面倒をみたと言うのです。これにより井上久助はその溝口秀勝公の恩義を忘れなかったのでしょう。
久助もまた幼少の頃から溝口秀勝公に仕え、伊豆で朝鮮使節の接待役や江戸まで馬に乗ったまま秀勝公の御供を努める優れた武士でした。

塩止め事件

時は江戸時代の初期、万治(まんじ)元年(1658)10月10日こと。新発田藩の運命を決する重大なお役目を胸に秘めて、井上久助は新発田藩をあとにし会津若松の鶴ヶ城をを目指しました。
ことの発端は同年(1658)5月のある日。
家老職を務める溝口重昭(みぞぐちしげあき)の元に会津より火急の「御用状(ごようじょう)」が届いたのです。内容を簡単に申しますと、新発田藩は以前より会津藩に「塩」を送り、会津藩からは新発田藩には「ロウソク」を送って、お互いに助け合っていました。ですがその書状には…『しかるに近年にいたり塩の荷送りが絶えて見られず、いかなる存念なるものか。近日中に会津藩より新発田藩へ使者を使わすゆえ、しかと返答されたし』と言うものでした。
家老職の重昭はしばらく考え込んで書状を手にして時の藩主第三代藩主溝口宣直公の御居間へ急ぎました。また同時に重昭は、ほかの家臣たちを新発田城へ集めたのです。急ぎ行って集まって来た家臣たちは「いかなる大事か?急用か?」と緊張した面持ちで待ちいっておりました。そして家老職を務める重昭は書状の内容とあらすじを伝えたのでした。重役の一人、長井源太夫(ながいげんだゆう)がふに落ちない顔で意見を述べました。「ご家老、不思議な事を申しますなぁ。そもそも塩を送る・送らないなど、我が藩で決めた事でござるか?」
長井源太夫が言う事がもっともな意見なのです。そもそも塩の売り買いは「商人たちの間」の取り決めで「新発田藩としての問題」でなく、一般庶民、とくに商人のみの問題…。また重役の一人が意見を述べます。『拙者も合点がいきませぬ。拙者が申したき事は、会津藩からのロウソクの事でござる。先日聞いた話によると、ここ数年、会津からもロウソクが入って来て無いと言う事』このこと御家老もご存じか? 家老の重昭も「いかにも存じておる」そもそも近年は新発田藩で塩はもちろんのこと、ロウソクも扱われ、会津藩においてもロウソクはもちろんのこと良質な塩を取る技術が進みました。なので、わざわざ山を越え新発田藩・会津藩の間で取引する必要性さえ無くなる世の中になっていたのです。
一人の家臣が「なにを今さら言うておるのじゃろう…」そこへ家老職の重昭が、こう家臣に伝えます。そもそも「そこ」が初めに申した『難題』なのじゃ。最近はおとりつぶしになる大名が増え、しかも会津藩は徳川将軍の血筋で23万石の大藩。 いっぽう新発田藩は6万石の外様大名。会津藩は大藩の親藩大名で幕府との信奉も厚い。いわゆるこの書状の持つ意味合いは、もともと「塩・ロウソク」の問題でなく会津藩と新発田藩との力関係にあり、いわば親と子である。ここでうかつな返事をすれば殿(溝口宣直公)はもちろん新発田藩の存命にも大きくかかわること。
会津藩は小藩の新発田藩が取った行動として大げさに取り上げ、会津藩の威信にかけて報復行動に出たのでした。
家臣たちは事の大きさに戸惑い、意見を重ねても明案さえ出ませんでした。そうこうしている内に会津藩よりの使者、増田淳之介(ますだじゅんのすけ)・藪平兵衛(やぶへいべえ)の2名が5月21日に公式な使者として新発田城に登城したのです。取り合えず人当たりの良い接待役を用意し会津藩の使者を接待したものの…。
増田淳之介・藪平兵衛の2名は「腹を決め新発田藩に登城」したのですから「一分の狂い」も許さぬ容姿です。(大藩の会津藩・小藩の新発田藩との関係とはいえ、会津の使者も己の命がかかっているのですから安易な気持ちではいられなかったでしょう…。)
接待役に二人の使者はこう申し述べます。『貴殿とて海を持たぬ我が会津藩に塩が取れぬのをご存じであろう。塩がなくては生きてもおれぬ。ましてや米・塩は戦の備え…。その塩を差し止めるとはいかなる所存か。親藩ゆえ幕府から東北の押さえとして会津藩鶴ヶ城に在って、天下の重鎮を任せられている。かかる所へ糧食を押さえる事は会津藩への新発田藩の敵対である』として、強く訴えるのでした。
接待役の重役は「米・塩は戦の備え…会津藩への新発田藩の敵対」と聞いた瞬間にたじろいでしまいました。 ですが接待役も負けてはいられません。
「敵対とはめっそうもなく心外な事でござる。『出雲の守(新発田第三代藩主・溝口宣直(みぞぐちのぶなお)』においても、『肥後守殿(ひごのかみ)会津藩主・松平正之まつだいらまさゆき=将軍家光の弟』の常日頃の御厚情ありがたくお考えにていささかも謀反もありませぬ。この事しかと申し上げます」会津の使者『では塩を止めるとはどういういきさつぞ。塩の入らぬは真の事ぞ。』新発田の接待役「しからば今しばらくお待ちください。詳細を調べてお答え致す。」新発田藩は、これが精一杯の言い訳でした。この様なやり取り…。2・3カ月の猶予をもらい、ひとまず会津の使者にはお引き取り願いましたが、問題は1つも解決していません。
家老職の溝口重昭を中心に家臣の者と連日の会議を町の商人たちを呼んで、ことの成り行きを明らかにしましたが、会津からのロウソクが途絶え塩を止めたの事…。
新発田藩には何の落ち度もありませんが、言い訳にもなりません。
そしてついに恐れていた会津藩からの知らせが参りました。『公議の上、会津への塩止の一件調査の為、戸川源次郎(とがわげんじろう)を遣わすよし家臣一同、残らず登城すべし。』との書状でした。新発田藩の家臣は一同に集まり「これはえらい事になったもんだ。何か良き策はないものか?」とざわざわしている時に、「おそれながら!!」と歩み出た者がおりました。井上久助です。井上久助は家老職・溝口重昭の耳元にそっと一言。「拙者に良き思案がございます。ここでは何ですので別間にて…」家老職・溝口重昭と井上久助は別間に移る事、小半時(こはんとき・2時間半後)溝口重昭は待たしていた家臣たちに「井上殿より良き思案の程を聞いて参った。ここでは申せぬが、これで殿もお喜びになるであろう。」と語り、足早に新発田藩主・溝口宣直(みぞぐちのぶなお)の居間に向かわれました。
「おそれながら殿に申し上げます。井上久助をただちに郡奉行(こおりぶぎょう)に任命下さい。さすれば井上久助が会津藩にまいり、この度の「塩止め事件」の一件は郡奉行たる井上久助が私腹を肥やす為、自らがたくらんだもの」と申し開きしてくる所存だそうでございます。井上殿は命を捨てる覚悟です…と。
新発田の御殿さま溝口宣直『あっぱれな武士じゃ!井上久助とな。褒美を取らすここへ連れて参れ』との言葉に家老は「井上久助は本日ただいまより欲深き郡奉行をと致さねばなりません。井上殿の御心は拙者と殿だけの胸に納めなければなりませぬ」
新発田の御殿さま溝口宣直はうっすら目に涙を浮かべ『あっぱれな武士。誠にあっぱれな武士じゃ。ひと言なりとも礼を言いたい。何としても秘かに連れてまいれ』その晩、久助はお殿様に御目通りを致しました。
『久助、そちの気持ちうれしく思う。そなたの忠義により新発田藩は救われる。代々…末代の末まで忘れる事はあるまいぞ。これは私の心じゃ』と藩主溝口宣直(お殿様)より久助は「盃」を賜りました。井上久助は「もったいなきお言葉。久助、心おきなく会津の地へ参ります」井上久助は盃を一気に飲みほすと深々と頭を地に伏せ、殿「さらばでございます」っと。

二度と帰らぬ旅立ち

その晩お城より戻って来た井上久助は家族を集め、このように言い聞かせました。「明日よりは新発田藩郡奉行の大事なお役目として会津へ行って参る。これより先なにがあろうとも拙者は武士として新発田藩、並びに出雲の守殿(新発田藩主・溝口宣直公)に忠義を尽くし武士として恥じぬ勤めを果たして参る。家族の皆、拙者を信じておくれ」とだけ言い残して会津へ出発したのでした。
会津若松の鶴ヶ城に向かう道中の井上久助の心境はいかなるものでしょうか?
・身に覚えのなき罪を自らが被ることの切なさ…。
・新発田藩・出雲の守殿はもとより、父上の代よりの新発田藩主・溝口秀勝公(みぞぐちひでかつ)に家族を救って頂いた恩義と忠義と…。
・新発田藩を守るため死を覚悟しての鶴ヶ城の登城…。
私達が生活する「平成の世の中」では到底、くらべることも出来ませんし、これがもし私達であるのならば、我々は井上久助のように新発田藩の為に罪をかぶり命をかける事が出来るでしょうか…。
井上久助も強い決心と裏腹には「人の心」をお持ちでしょう。心中穏やかではない、不安を抱いていた事とお察しいたします。

会津藩・鶴ヶ城に登城

いよいよ「その時」が来てしまいました。井上久助は新発田藩安泰を肝に銘じ、自らを奮い立たせました。『書面通りのことを言い通すしかあるまい』と鶴ヶ城登城にあたり新たなる衣服に身にまとい鶴ヶ城・城内に進んだのです。
おおぜいの役人と共に会津藩三家老の長田次郎佐エ門(おさだじろうざえもん)・佐川図書(さがわずしょ)・西郷頼母(さいごうたのも)ら3人が待ちかまえておりました。
そして長田次郎佐エ門が『これより塩止めの一件について取り調べる。嘘いつわりを申すな、為にはならんぞ!』…。長田次郎佐エ門は井上久助を罪人扱いしてはおりませんが、他国の武士に物を尋ねるには少々失礼な言いぐさです。
失礼千万を井上久助は微動だにもせず質問に答え続けるのでした。
長田次郎『井上殿この度は新発田藩より審議の沙汰「書面状」をもって申し出ている内容に間違いはござらぬか?』
井上久助は「いささかの間違いもございません。」
『しからば問いただす。当会津藩に新発田藩より塩を買い入れていた事を存じておるな!』
「勿論でございまする。」
『その塩を、ここ2~3年送ってこなかった事については承知しておるか?』
「それも承知にござる。」
『しからば、それを指図したのはだれか答えよ!』
「拙者の一存でございまする。」
『そうではあるまい。出雲の守殿(新発田藩主・溝口宣直公)の差しであるな!』
「とんでもござらぬ。書面の通り。郡奉行である拙者一存にて欲をかき他国へ塩を売り着服したのでござる。」
『偽りを申すな!』と、やり取りが長く続くのでした。

審議官の長田次郎佐エ門の眼にも、井上久助は新発田藩の一切の罪を自らを犠牲にして一人で責任背負う覚悟のつもりで鶴ヶ島城に登城している事は一目瞭然…。
長田次郎の心中にも「新発田藩への忠義。この男なんとあっぱれな武士じゃ」と、思い始めて来たのです。ですが立場上…。
『井上どの。良く御考えあれ。このような事、郡奉行のそなた御一人の一存で出来る事ではござらん。決して悪いようには致さぬ。どうか真実を話して頂けぬか?』
「長田殿。拙者は塩止めの罪、すべてを認めております。それにもかかわらず何を疑われるか?」井上久助はあくまでも平常を保っております。その態度と姿勢・気品に気質すべてにおいても罪人とは、とてもとても思える物ではありません。
この場にいる役人達すべてが…「井上久助は自らを犠牲にして罪を背負込むつもりだ。新発田藩を守るため自らの身命を投げだす気であろう。そして自らの死を覚悟しているからこそ、ここまでに冷静にしていられる。『新発田には見上げた武士がいるものぞ』と感服さえみられるのでした。
審議官の長田次郎佐エ門は揺れる心を抑え…『いた仕方あるまい。ほうろくの刑を申し渡す。』井上久助は会津藩の塩を着服した大罪人として鶴ヶ城の東に位置する刑場に連れて行かれました。
「ほうろくの刑」とは、一段高く作られた所(二尺・約66㌢)に銅板を敷き、下から炭火で真っ赤に炙った銅板の上を歩かせると言う残酷な刑でした。
銅板は色を替え、嫌な煙と、鼻につく臭いを出し漂っています。

新発田藩からの大罪人

塩止め事件の犯人「井上久助の拷問」を一目見ようと町の衆が集まってきました。それをよそに会津の役人は「井上久助への拷問」心を痛めた事でしょう。ほうろくを前にした井上久助に会津藩三家老の内、西郷頼母(さいごうたのも)が『井上殿、今一度たしかめたい。そなたの言う事。間違いござらぬか?』井上久助は「拙者、嘘いつわりは一言も申してござらぬ。」と落ち着き払って答えたのでした。
『そうであるか…。誠におしい男じゃ…。井上殿、会津の御殿さま(肥後守殿・松平正之ひごのかみ・まつだいらまさゆき)よりの思し召しでござる。』と、そっと風呂敷を差し出しました。中には真っ白な裃(かみしも・武士の正装)と白足袋に草履(ぞうり・履物)井上久助は「肥後守様の思し召し有り難く承ると」ささっと身なりを整え、灼熱の銅板の上に進んだのです。
当たり一面、白い煙と焼け焦げた肉の匂い。草履には、そそくさと火が付き、純白の裃には炎がまいあがりました。少し進んだ所で井上久助は立ち止り、会津の殿の使いの武士と三家老・役人達に丁寧に頭を下げると、何のためらいもなく「舞い」を踊り謡い始めたそうです。「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」「唐衣 きつつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う」※平安時代の歌人、在原業平(ありわらのなりひら)が「かきつばた」の5文字を歌の句頭に入れて詠んだとされます。「都から東げ下る途中、三河国八橋で美しく咲く杜若(かきつばた)を見て都に残した妻を偲び」『かきつばた』の五文字を句の頭に置いて詠んだとされ、井上久助は新発田城の御堀に多く咲く「あやめ」(別名あやめ城)を偲んでのことであったであろうと推測されます。
伊勢物語を典拠にして作曲されたものだそうです。)

井上久助は謡いおわると同時に銅板を渡り終えました。その身体は見るも無残に焼けただれておりました。会津の武士達は井上久助を『あっぱれな勇姿よ。これぞ真の武士じゃ』と心に留め置きました。見る物すべての胸を打ち、感銘さえもあたえた井上久助。その忠義に免じて、会津藩はこの『塩止め事件』をこの後、不問としました。
ですが不正を働き会津藩に被害をあたえた「犯人」とした以上、このままとはしておけません。

斬罪の刑執行

井上久助はその後、万治3年(1660)10月10日、お籠にて新発田藩と会津藩の境界付近山内の口留番所の近くまで運ばれ(現在の新発田市米倉)井上久助は新発田藩の役人立ち合いの元、会津藩の手で首をはねられたという事です。 井上久助の亡きがらは新津の日蓮宗妙蓮寺に葬られ、「妙法蓮華経」の「五輪の塔」が建てられました。

そして自らを罪人として新発田藩を救った井上久助を偲び、称え、誠の武士の魂を新発田の地に伝えるがごとく井上久助の死後268年を経て昭和3年(1928)当山(新発田市・法華寺)に『烈士井上久助氏之碑』として建立されました。
そして碑の元には井上久助の「遺髪」と「遺爪」を埋葬するに至りました。

烈士井上久助

井上久助のお陰で新発田藩は一大事を救われました。また現代には、こんなにも素晴らしく「目に熱い思い」を感じる歴史が新発田にはあります。
この勇姿、心に秘めた熱い「魂」を忘れる事なく誇りに思い、継承していきたいと素直に思う今日この頃です。

烈士井上久助。そのご子孫は当山の檀徒としてご健在です。これも新発田藩を救った井上久助の御遺徳の限りと拝察いたします。
どうぞ皆さんも初代新発田藩主『溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)』公が自ら建立された当山法華寺にある井上久助に手を合わせて偲びましょう。

ー 参考文献 ー
『新発田市史』下巻 新発田市
ふるさとしばた『新発田をめぐる人物ものがたり』

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