昨日30日は新潟県東部宗務所管内の寺院総会(^^)/14時から伝道企画会議。
私、伝道担当事務長なので進行役でしたが画像で伝わりますかぁ!?この威圧感( `ー´)ノ慈愛にあふれる僧侶が「ガチで言い合う」のでギャップが激しすぎる(;^^)
妙宣寺様の御宝前に一読させて頂いてから🎤いよいよ御遺文奉読会の開催です(#^^#)
如来滅後五五百歳始観心本尊抄《選述の意図》
日蓮聖人は「末法」という正しい仏法が見失われてしまう時代に於いて、私達が拠り所とすべき真実の仏法は法華経にあると主張され、その教えを弘通する為に度重なる法難を体験されました。ところが法難が厳しくなるにつれ日蓮聖人の弟子や信徒の中にも懐疑的( ある事柄に対して疑う傾向・疑いをもって物事に接する)になった人達もいたようです。ましてや「生きては帰れないと」言われる北国寒山佐渡島の流罪。日蓮聖人はどの様な教えを門下に残されたのでしょう?
『開目抄』には法華経の真の弘通者には諸天の守護があると説かれているのに、それが明確でない所に疑問が提起され、この問題について日蓮聖人は「末法の法華経の行者」には「未来記」の通り法難を忍受することによって教法の真実性を証明する責任があり、それを果たすことが出来た法悦と仏の使い→「仏使の自覚」を表明されました。
『観心本尊抄』では、さらに法華経による宗教的救いの世界を述べる為に、天台教学の真髄である「一念三千」の法門を注釈する立場で示され、天台教学には教義理論によって仏の悟りの世界に導こうとする「教相門」と、修行によって仏の悟りを実践的に体験しようとする「観心門」があります。
この2つの門を車の車輪の両輪のように兼ね備える所に最大の特徴があるのです。
天台三大部のうち『法華玄義』と『法華文句』には主として教相門、『摩訶止観』には観心門が説かれますが、このうち『摩訶止観』においては天台大師、御自身が実践的に体得した最も重要な法門として説示されるのが「一念三千」となります。
日蓮聖人は佐渡配流の途上、越後の寺泊から富木常忍氏へと送られた書簡『寺泊御書』には、日蓮聖人に対する非難の中、ただ教相門ばかりを論じて観心門に触れていないと言う指摘があったと記されています。『観心本尊抄』は、こうした疑問に答える為に天台大師の一念三千の法門について注釈するという形式を取りながらも、日蓮聖人独自の信仰的内面の世界を明らかにされたのでした。しかも釈尊御入滅後の歴史において五五百歳の今、末法に入って二百数十年の今に至るまで、明らかにされなかった「観心と本尊の法門を始めて明らかにする」と言うのが題名に込められた意図であったことでしょう。
これより先の内容は、皆さんがお読みになってからのお楽しみ💗
最近、おちゃらけ「ブログ」ばかり。このお坊さん本当に大丈夫!?っと噂されそうです(;^^)と言うことで佐渡に行って来ました。バカンスではありません。お仕事です!令和3年12月6日に老朽化した配電盤からの火災で全山焼失された「一谷妙照寺(いちのさわ)」News📺で火事の動画が流れていましたが凄い勢いで手が付けられない状況(/ω\)火災の前は緑豊かな雰囲気。ここで日蓮聖人が魂魄を込めしたためた『観心本尊抄』。そして本年が観心本尊抄が述作750年目の年でした。一日も早い復興とコロナ退散を祈り、新潟三管区から集まった僧侶でお参りさせて頂きました。火の猛威は恐ろしく石碑迄、熱に耐えられなくヒビ割れてしまっています(-_-)zzz妙照寺様の復興祈願の後に阿仏房妙宣寺様へ。立派な五重塔(*´з`)
ここで『観心本尊抄』の奉読が今回の目的です!阿仏房日得上人の石像。原寸は5㎝位なのですが写真で拡大📷参加僧侶二十数名で「ユックリとゆっくりと」一文いちもん噛みしめながら奉読させて頂きました。
『観心本尊抄』は正確には【如来滅後五五百歳始観心本尊抄】と称し『開目抄』が著された次の年、文永10年(1273)4月25日のことでした。佐渡の国一谷の配所において撰述が完成し、その翌年の4月16日付けで「副状(そえじょう)」と共に下総国(千葉県)の富木常忍に宛てて届けられました。日蓮聖人が32歳で立教開宗されてから、ちょうど20年後のことです。
ご真蹟は十七紙一帖で表裏と両面を使って記載され第12紙までは楮紙(こうぞがみ)、13紙からは少し判が小さい紙面が滑らかで光沢のある雁皮紙(がんびし)が使われています。現在は中山法華経寺に格護され国宝に指定。
内容は次回のブログで(^^)/