まだまだ朝晩冷えますが⛄日中になるとポカポカ陽気(*´ω`*)「お華の寺」法華寺の境内には沢山の花々が咲き誇っています(#^^#)今までは、嫌いではありませんが(^^;)そんなに好きでもなかったかなぁ(‘ω’)四十台半ばを迎え涙腺は緩み、綺麗なものはキレイだと素直に喜べる今日この頃(*´з`)最近は足を止め、見入ってしまいます👀 癒されるな💗💗💗🌺🌸
もうじき牡丹も咲き始めますね!楽しみ(#^^#)頑張って、ここぞとばかりのお花を咲かせるんだよ♪
お寺でお預かりする事になった檀家さんのお宅。ご近所さんから荒れ果てた樹木や落葉の相談があり(;^^)この際、庭の木を「全部伐採することでご近所さんも同意」。まずは選定と伐採の段取りをつけて…。っとその前に《一番大事なこと♪》木々に伐採の報告とお詫びのお経(-人-)この地で何十年も育って、風雨から家や家族を守ってくれた樹木。最後に感謝されて当然ですよね♪こんな事になって本当に申し訳ありません。明くる日。法事を終えたら衣を脱いで「木こり」に変身( `ー´)ノ
松と梅の大木から取り掛かりetc。ノコギリ片手に頑張りました(; ・`д・´)裏庭の樹木はしばらく寝かし、カサを減らしてからじゃないと重たくて運べません。前庭の方は何とか運んで来たけど凄い量。後日、焼却炉へ運びましょう(;^^)切るのは何とか切ったけど、もう体がガタガタです(*ノωノ)あとは素直に(*´з`) 人材センターへお願いしよう(;^^)
塚原三昧堂の内陣・御宝前。読誦会の時にお開帳して頂き立派なお祖師様を拝見出来ました(#^人^#)13時から再び竹中貫主様に導師をお願いして法味言上。今度は簡単に(^^)
上下二巻の大作「開目抄」内容を吟味できるようにユックリ奉読させて頂きます(#^^#)御宝前を中心に左右に分かれ交互にみんなでお読みしました。
「開目抄」 (かいもくしょう)
日蓮聖人箸。文永8年(1271)11月佐渡塚原三昧堂到着と同時に執筆を始められ翌年2月に完成。著述の理由は、大きく3つ。
①32歳での立教開宗から佐渡流罪までの19年間、法華経の弘通は迫害と受難の連続であり、その為に弟子信者の中からは退転するものが続出した。日蓮聖人の布教と迫害に対する弟子信者の疑問をはらう為。
②末法の時代を受け、正しい教えの導師が日蓮聖人であることを明らかにする為。
③流罪地、佐渡に於いて死を覚悟した日蓮聖人が「かたみ」として弟子たちに残す為。
題名は人々の盲目を開く意味で、法と人とに迷う日本の人々に日蓮聖人が法華経の行者・末法の時代における師であることを示すところに意図があり『人開顕』の書と言われる。
内容は、まず末法の導師を明かすに先立って、末法の衆生が信ずべき正法が法華経本門の肝心、一念三千の法門であることを明示する。そして法華経が難信難解の法であることを講じて日蓮聖人の改宗以来の立願と受難について述べ、声聞・諸天・菩薩・諸仏は法華経によって成仏したのだから、法華経の行者を守護すべきであると説き「三類の強敵」法華経の行者は誰であるかを示す。ここに日蓮聖人こそが末法の導師であることを宣言し、三大誓願が発表される。
そして穏やかに説得する摂受と、強く責めたてて迷いをはらす折伏のいずれが末法の弘教法として適当であるかを論じて、謗法(仏法をそしること)の盛んな日本では折伏による布教を優先させるべきと決する。日蓮聖人三大部・五大部の1つ。
《補足説明》
・「開目」と同意。「日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳あり」《報恩抄》
・龍口法難~佐渡法難にかけては幕府による迫害を受けて、弟子・檀越に動揺がみられ退転者が続出した。
「鎌倉にも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候」《新尼御前御返事》
「日蓮御房は師匠にてはおはせども余りに剛(こわ)し。我等はやはらかに法華経を弘べし」《佐渡御書》
「法華経信仰者は諸天に護られる筈なのに、なぜ次々と難に遭うのだろうか?日蓮聖人は法華経の行者ではないのではないか!?」という弟子・檀越らの疑念・疑問に対し開目抄を通して答える必要があった。
・末法の布教方法には、穏やかに説得する「摂受」と、強く責めたてて迷いをはらす「折伏」の2通りがある。
「法華経の安楽行品に説かれるように無智や悪人が国中に充満しているときは摂受による布教方法を。また常不軽菩薩品に説かれるように邪智の人や法華経を謗る人が多いならば迷いをはらす折伏による布教方法を選ぶべきであると。
《その他》
・塚原三昧堂。「一間四面」…現在の一間(1.8メートル)とは違う。身舎(もや)の柱の数と庇(ひさし)が四方へ張り出している建物の形をいい、最大で8畳ぐらいの広さの建物だったと言われる。
・『開目抄』は日蓮聖人の四百以上ある御遺文の内、最長編。
・佐渡期の御遺文は60編ほどあるが、その内の三分の一に「法華経の行者の受難」に言及している。
・「つらい・受難・寒い」佐渡での生活から育まれた点が強調されるが開目抄で自己を省みる厳しさの一方、弟子を思いやる日蓮聖人の優しさ、檀越との慕わしい交流も佐渡での聖人に見られる。
「さればつらかりし国なれども、そりたるかみ(髪)をうしろへひかれ、すゝむあし(足)もかへりしぞかし」《国府尼御前御書》
『佐渡の国は確かに苦痛に満ちた所ではありましたが、いざ赦されて鎌倉へと旅立ことになると、離れがたい心気持ちが沸き上がって、剃った筈の後ろ髪を引かれ、踏み出した足を元に戻したい気持ちが起きてしまう。』
・佐渡に随伴されたお弟子様の視点
身の回りのお世話をする為に同行した弟子の数は数人。白蓮日興上人・佐渡日向上人・日頂上人が挙げられる。
「或る記に云く、佐渡公、伯耆公二人佐渡御参あり」《元祖化導記》…佐渡に渡った初期頃。
「是へ流されしには一人も訪人もあらじことこそおぼせしかども、同行七八人よりは少なからず」《呵責謗法滅罪抄》
まじかで日蓮聖人の姿を見ていた若い仏弟子たちの思想形成にとって佐渡流罪随伴の影響が多大。
白蓮日興上人は佐渡期の御遺文を何度も書写し、日蓮聖人のことを「仏」・「仏聖人」と表した。
文永8年(1271)に佐渡塚原三昧堂に到着と同時に執筆なされ翌年の2月に完成した開目抄。日蓮聖人がお生まれになられて今年で800年。佐渡に御流になられて去年で750年。開目抄を執筆されて今年で750年。
まずは新潟から日蓮聖人を盛り上げよう♪と言うことで御執筆の聖地、塚原三昧堂で報恩奉読会( `ー´)ノ青い空・青い海。奉読会も良いけれど大物でも釣りたいなぁっと考えていたら緊急停止。目の前にクジラが表れたそうな(゚Д゚;)ハプニングがありましたが無事到着(^^)/霊跡本山塚原山根本寺さま。
の塚原三昧堂。凄い彫刻ですね(*´ω`*)まずは御報恩の読誦会。久々に要品一巻みんなで奉読。木鉦を預からせて頂きました。大人数で読むのは行堂以来。少しの緊張と大きな満足♪気持ち良い!(^^)!根本寺竹中貫主様のご挨拶。『去年の11月に塚原へお越しになられた日蓮聖人。開目抄を執筆された後は一谷妙正寺に住まいを移される。その間お風邪など引かせてはならぬと一生懸命にお経を読んで御給仕をさせて頂きました。』←志が本当に有難いですね♪勉強させて頂きました(#^^#)