あの松の見える山に法華の寺を建てよ

新発田広報に掲載されました


アップするのが遅くなりましたが、先月の『広報しばた』NO1391号に法華寺に眠る窪田平兵衛さんの記事が掲載されました(^^)v

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窪田平兵衛武文(くぼたへいべえ・たけふみ)は文化12年(1815)10月に新発田藩家老・窪田武定の長男として生まれ幼名は次郎、通称は平兵衛・節斎と号する。

君候の信任厚く激動の慶応3年、幼君誠之進、後の溝口伯耄守直正公の名代として激動の京都に赴き、
12月2日に入京する。

その後、京都で情報収集や朝廷・薩長との交渉をし戊辰戦争における新発田藩の採るべき道筋を模索したのである。
刻々と変わる天下の情勢をちくいち藩に連絡し重要な役割を果たした事が戊辰戦争のとき官軍に味方する原動力となった。

新発田藩は一旦は奥羽越列藩同盟に加盟したが、直後に新政府軍に加担したのは、窪田平兵衛の働きが大きかったと言われる。


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  • 投稿日: 2015年03月02日
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