あの松の見える山に法華の寺を建てよ

井上久助さんの碑の前で追善法要


先回もご紹介致しました当山の境内に慰霊碑があります
(ホームページ「井上久助」参考)

『井上久助(いのうえきゅうすけ)』さんの御命日が今日
万治(まんじ)3年(1660)10月10日、352回目の御命日でした。



ことの発端は、会津藩と新発田藩の間で勃発してしまった
『塩止め事件(しおどめじけん)』 「万治元年(1658)」

海が近い新発田藩は会津藩に塩を送り
良質な塩が取れなかった会津藩は、新発田藩にロウソクを送って
両藩の商人はお互いを助けあう仲でした

ですが、ある時から会津藩の商人からロウソクが届かなくなり・・・

(話によると会津でも塩が取れるようになり、わざわざ山を越えて塩を運ばなくても良くなったとの事)

お互いの商人どうし「やり取りが無くなった」その時の事でした。


今度は商人の間ではなく「会津藩」から直々に書状が届き
『塩は戦の備え、新発田藩の行為は会津藩に対する敵対とみなす』

とは言っても
それらの問題は会津藩と新発田藩の商人同士の話で
「会津藩」「新発田藩」いわば「藩」の問題ではなく「商人」の話・・・

ですが会津藩は徳川将軍の血筋で23万石の大藩
いっぽう新発田藩は6万石の外様大名
とてもとても新発田藩が正論を言っても、かなう相手ではございません。



井上久助さんは、自らの父である「八左衛門正実」さんの代から
新発田藩、初代藩主『溝口伯耆守秀勝公(みぞぐちほうきのかみひでかつ)』
の功臣として使え、久助5歳の時に病に倒れてしまいます。

ですが秀勝公はこれを心の底からなげき痛み、まだ幼かった井上久助に
跡目を継がせ一族郎党すべて面倒を見てくださった溝口秀勝公に
井上久助は恩義を忘れなかったのでしょう。

そうして井上久助さんは恩義ある藩主秀勝公の為に、新発田藩の為に、
愛する家族の為に・・・

『私腹を肥やす為にやった』と「罪なき罪を」自らかぶることによって
新発田藩を救ったのでした。

お経の中に「知恩報恩(ちおんほうおん)」「恩を知り、恩に報いる」
誇りある「烈士井上久助」さん。

努力する事が、あたかも愚かであるかのように考えられてしまう今の世の中に
この井上久助さんの尊く光り輝く勇志「恩義」すばらしい事です。

新発田に住む私達が特に、忘れてはならない事柄でした。

みんなでお参りさせていただきました。





井上久助さんのご子孫。
井上久さんとお母さん。
300年以上経っているのに、これも井上久助さんのご遺徳ですね。
「皆で今日お参りさせて頂きます」とお伝えしたら
お仕事を休んでまでお越しくださいました。
 
 
 
 
 
当山の檀信徒の皆さんお忙しい所ありがとうございました。
 
 
 

お経の後で井上久助さんのご子孫を囲み、ささやかなお茶飲み会です。


新発田市の総務部から取材に来てくださった関根さん。ありがとうございました。


檀信徒の皆さん。
坂本さん 中台さん 寺尾さん 伊藤さん 岩橋さん 斎藤さん 若林さん・・・

本当にありがとうございました。
井上久助さんも、きっとお喜びの事だと思います。


  • カテゴリー: 未分類
  • 投稿日: 2012年10月10日
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