あの松の見える山に法華の寺を建てよ

御礼の言葉

師父・本田義元こと「正真院日道上人」遷化に際し、檀信徒の皆様におかれましては長きにわたり大変お世話になり心より感謝申し上げます。師父は地元「松浜中学校」を卒業後、沼垂真善寺・生川義詮僧正を師と仰ぎ16歳で得度し真善寺に身を寄せながら「沼垂高校」定時制に通いました。残念なことに「師」義詮僧正が翌年に遷化され、師匠が居ない寺で肩身の狭い丁稚奉公をしたようです。

高校を卒業後、大本山池上本門寺に随身。昼間は修行に励み夜間に立正大学に通い、勉学に励んだそうです。

大学を卒業後、昭和38年5月に日蓮宗第1期信行道場を終了。念願の僧侶の資格を得ました。その時より「何とか本田家の自宅を寺院に改修しよう!」と地元松浜を唱題行脚。大願を成就する為に昭和39年11月に千葉県市川市「正中山遠壽院大荒行堂」に入行。寒壱百日間の荒行を成満。修行の功徳があってか昭和44年には新たなる土地を授かりお寺を建立。寺号公称し「松浜法華堂」と称しました。

昭和45年5月。母と結婚。その御報告は勿論のこと松浜法華堂建立の「大願成就の願戻し」を胸に秘め、再び荒行堂に入行。翌、昭和46年2月10日。200日目の行を無事成満。その後すぐに「長女」が生まれ、昭和48年には「長男」が授かりました。

この頃より法華寺第24世、上野教円上人夫妻より「法華寺の法統継承」を熱望され、その真意を受け松浜法華堂と新発田法華寺の2ケ寺を行き来することになりました。機が熟し昭和52年3月31日。正式に法華寺に住まいを移すことになります。同年10月には「次男」(現住職)本田義昌が生まれましたが喜びもつかの間、5日後に上野教円上人が遷化され、松見山法華寺第二十五世として法統継承に至ります。

住職に就任後、まずは境内整備に専念し無縁墓地を整理。「法界萬霊塔」を建立。法華寺の歴代上人廟を新たに建立し、昭和56年10月には宗祖七百遠忌に合わせ当時の筆頭総代さんと共に「日蓮聖人銅像」を建立。日蓮聖人へ報恩の誠を捧げ檀信徒の皆様には信仰の継承と御先祖様の存在「出生の御恩」を今一度感じて欲しいと祈ってのことだと聞き及んでおります。

平成元年から法華寺の檀家さんや松浜法華堂の信徒さんに勧募を募り平成4年10月、本堂・位牌堂・書院・庫裏を新築。落慶式を迎えることができました。

又、境内地にコツコツと自ら樹木を植え、緑化を図り、四季を問わず境内には奇麗な花が咲き誇ります。きっと墓地に眠る檀信徒の「御先祖に安心を与える」と共に、上人の「報恩感謝の心配り」であったのではないかと思います。

法華寺の「悲願とも言える平成の大改修」を終え、大願成就の御礼に300日目の荒行入行を志すも、師父義元上人の「母」トヨの体調が悪く断念することになりました。

それ以来、法華経・御題目を唱導し檀信徒の「心の拠り所を作ろう」と励まれたそうです。平成14年には篤信者より仁王像の寄進があり「山門建立」を計画し、平成20年10月19日の御会式に合わせ落慶法要を迎え、山門両脇には今なお仁王様が御守護下さっております。

まさに松見山法華寺の「中興」と言っても過言ではないのかなと感心しています。

ふと思うことは「法華寺にお祀りされる仏様が《お寺の再建と復興を願い》師父本田義元を松浜の地より、法華寺へと「呼んだのではないか?」と感じました。

日蓮宗内では新潟県東部宗務所管内、修法師会長・護法伝道担当事務長を務め、長きに渡り「新発田地区の協議委員」を務めました。宗外では「新発田市仏教会」の会長を務め、宗派の垣根を越えて「信仰の在り方」や「仏教界の展望」の為に取り組んでいたようです。

師父の性格は時には厳しく、心の根は温かく涙もろい面がありました。かと言って人前で決して涙を流すことはありません。お酒を好み、いつも笑顔で豪快に皆を楽しませる。檀信徒の皆様も、そんな師父の人柄や御先祖様がいらっしゃる「法華寺の発展の為」に力を合わせ、大事業を共に支え下さったのだろうと御礼と感謝を申し上げます。

昭和58年3月、並びに平成4年10月には日蓮宗管長より境内整備、及び本堂伽藍整備の勲功を表され「管長表賞」を2度受賞。又、全国日蓮宗修法師連合会からは荒行を成満し修法歴50年の会長賞表彰を授かったようですが、本人はあまり表彰には興味はなく檀信徒の皆様の信仰や「親から引き継ぐ・心の継承」等で頭が一杯の様でした。

平成25年、弟子の義昌(私)に法統継承し、老後の楽しみとばかりに趣味の盆栽や読書・韓国ドラマを楽しみましたが、本年お盆頃より身体の不調をきたし9月の下旬に病院へ入院しました。

師父は「本当に運が強い人だな」と感じることはコロナ禍、面会が叶わない世の中ですが画面越しにリモート面会が出来たり、10月26日、亡くなる数時間前には「今後の治療方針について」 説明を受ける為に病室へ入れて頂き、意識は朦朧としていましたが師父に面会が叶いました。

その後、長女が勤務する病院の院長先生のお計らいで内科の専門病棟に転院することになりました。転院先の病院でも院長先生が『決して安心できる状態では無いのでご家族皆さんの面会を許可します』と母や姉・兄と姪っ子。私の妻や子供達、全員が師父の枕元で手を握り、孫には『ジジちゃん頑張って!』とおでこをペチペチ叩かれ♪今思へば最後のお別れをさせて頂けました。

父は自らの死を覚悟して入院したのでしょう。私に元気な内から口癖のように言っていた事柄がありました。

①『俺が死んでもメソメソするな!笑って送り出してくれれば、それでいい。』

②『葬儀のおときは月岡温泉の泉慶でやってくれ!』

③『俺の位牌の前に盃を置いて、それを飲み干してから盃に酒を注いでくれ!』←これだけやってもらえたら俺も笑顔で旅立つよ!

師父の願いの通り、上記3つの遺言を果たすことが出来ました。亡くなってから毎晩、師父の枕元で兄と酒を飲み師父の口元にお酒を飲ませると「ニッコリ笑い、ほんの少し顔が赤らんだ」様な気がします。

私は僧道生活に入って30年が経ちますが、初めて人の死ぬ瞬間を目の当たりにしました。最後に自らの身を以て大切な事を教えてくれた師父に感謝し、しっかり師父の思いを継いでいきたいと思います。

昨今のコロナ禍の為、皆様に連絡が行き届かず不手際な点、多々ありましたことお詫び申し上げ、心より御礼申し上げます。皆様、大変ありがとうございました。12月13日。正当「尽七日忌」地元御寺院さんにお経をあげて頂き法華寺護持会の役員さん。親族に見守られながら法要を営みました。朝から雪が降って居ましたが、師父の口癖とおり『法華寺の行事は必ず晴れる!』法要中は雪が止み、太陽の木漏れ日がさしてポカポカ陽気になりました。

<法華寺住職・本田義昌 九拝>

  • カテゴリー: 未分類
  • 投稿日: 2021年12月15日
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