あの松の見える山に法華の寺を建てよ

今日10月6日は…。

昨日&一昨日の温帯低気圧(台風)の強風で境内が荒れ放題(/ω\)日付が変わり今日10月6日の14時からは♪新発田藩のスーパースター井上久助さんの報恩法要(#^^#)皆さんに「この新事実を知って頂きたく」【語り部】松川美恵子さんをお迎えして「烈士井上久助について」講演会を行います!「腹を割っても白かった」第2弾・寿堂さん謹製ほんのり塩味『潔白饅頭(けっぱくまんじゅう)』の振る舞いもあります!
昨日は丸1日かけて久助さんのお墓の周辺や境内を隈なくお掃除( `ー´)ノ身延山時代に教わった「お坊さんの掃除」に徹し、落ち葉1つ許しません(*´з`)綺麗にし過ぎたのでもうクタクタ(‘◇’)ゞ

【烈士井上久助】(れっし・いのうえきゅうけ)…概要

「罪なき罪をかぶり自らの命と引き換えにたった一人で新発田藩を救った男」

ことの発端は、会津藩と新発田藩の間で勃発してしまった『塩止め事件(しおどめじけん)』 「万治元年(1658)」

海が近い新発田藩は会津藩に塩を送り、良質な塩が取れなかった会津藩は、新発田藩にロウソクを送って両藩の商人はお互いを助けあう仲でした。ですが、ある時から会津藩の商人からロウソクが届かなくなり…。
(話によると会津でも塩が取れるようになり、わざわざ山を越えて塩を運ばなくても良くなったとの事)
お互いの商人どうし「やり取りが無くなった」その時の事でした。
 今度は商人の間ではなく「会津藩」から直々に書状が届き『塩は戦の備え、新発田藩の行為は会津藩に対する敵対とみなす』と。

とは言っても、それらの問題は会津藩と新発田藩の商人同士の話で「会津藩」と「新発田藩」いわば「藩」の問題ではなく「商人」の話…。
 ですが会津藩は徳川将軍の血筋で23万石の大藩。いっぽう新発田藩は6万石の外様大名。とてもとても新発田藩が正論を言っても、かなう相手ではありません。(特にこの徳川時代は親藩・譜代・外様の3つがあったのですが、いわゆる「外様潰し」が流行っていたのでしょうね。)
 井上久助は、自らの父である「八左衛門正実(はちざえもんまさざね)」の代から新発田藩、初代藩主『溝口伯耆守秀勝候(みぞぐちほうきのかみひでかつ)』の功臣として使え、久助5歳の時に病に倒れています。
 秀勝公は自らの右腕としていた八左衛門正実が亡くなってしまい、これを心の底からなげき悲しみ、まだ幼い久助に跡目を継がせ、一族郎党すべて面倒を見て下さったそうです。これにより井上久助は溝口秀勝候に深い恩義を胸に刻み、生涯一時も忘れることが出来なかったことでしょう。それからと言うもの井上久助は秀勝公の御恩に報いようと勉学や武術にいそしみ秀勝候の側近を詰めることとなりました。

法華経の中に「知恩報恩(ちおんほうおん)」「恩を知り、恩に報いる」とあります。

井上家の危機を救って下さったお殿様に恩を感じ、亡き父正実と同様にお殿様の御恩に報いること。久助は亡き父を偲び、父と同じ志を胸に秘め秀勝公に仕え、これを返そうとしたのではないでしょうか?

努力する事が、あたかも愚かであるかのように考えられてしまう今の世の中に、この井上久助さんの尊く光り輝く勇志「恩義」すばらしい事ですね。

 そうこうしている内に会津藩より、2名の使者が新発田城に登城したのです。大藩の会津藩・小藩の新発田藩との関係とはいえ、会津の使者も自らの命がかかっているのですから安易な気持ちではいられなかったでしょう…。

 二人の使者はこう申し述べます。『貴殿とて海を持たぬ我が会津藩に塩が取れぬのをご存じであろう。塩がなくては生きてもおれぬ。ましてや米・塩は戦の備え…。その塩を差し止めるとはいかなる所存か。親藩ゆえ幕府から東北の押さえとして会津藩鶴ヶ城に在って、天下の重鎮を任せられている。かかる所へ糧食を押さえる事は会津藩への新発田藩の敵対である』として、強く訴えるのでした。

 新発田藩の接待役は「米・塩は戦の備え…会津藩への新発田藩の敵対」と聞いた瞬間にたじろいでしまいました。ですが接待役も負けてはいられません。

「敵対とはめっそうもなく心外な事でござる。『出雲の守(第三代新発田藩主・溝口宣直候(みぞぐちのぶなお)』においても、『肥後守殿(ひごのかみ)会津藩主・松平正之まつだいらまさゆき=将軍家光の弟』の常日頃の御厚情ありがたくお考えにていささかも謀反もありませぬ。この事しかと申し上げます」

 会津の会津の使者『では塩を止めるとはどういういきさつぞ。塩の入らぬは真の事ぞ。』としばらくの間、押し問答が続くのでした。

新発田藩の接待役も「しからば今しばらくお待ちください。詳細を調べてお答え致す。」これが精一杯の言い訳だったのでしょう。2~3カ月の猶予をもらい、ひとまず会津の使者にはお引き取り願いましたが、問題は1つも解決していません。

新発田藩筆頭家老を中心に家臣の者と、連日の会議。町の商人たちを呼んで、ことの成り行きを明らかにしましたが「会津からのロウソクが途絶え塩を止めた」とのこと…。新発田藩には何の落ち度もありませんが、言い訳にもなりません。そしてついに恐れていた会津藩からの知らせが届きました。

『公議の上、会津への塩止の一件調査の為、戸川源次郎(とがわげんじろう)を遣わすよし家臣一同、残らず登城すべし。』との書状でした。

新発田藩の家臣は一同に集まり「これはえらい事になったもんだ。何か良き策はないものか?」とざわざわしている時に、「おそれながら!!」と歩み出た者がおりました。井上久助です。

 井上久助は筆頭家老にそっと一言。「私に良き思案がございます。ここでは何ですので別間にて…」家老と井上久助は別間に移る事、小半時(こはんとき・2時間半後)

 筆頭家老は待たしていた家臣たちに「井上殿より良き思案の程を聞いて参った。ここでは申せぬが、これで殿もお喜びになるであろう。」と語り、足早に新発田三代藩主・溝口宣直候(みぞぐちのぶなお)の居間に向かわれました。

 「お殿殿。井上久助をただちに郡奉行(こおりぶぎょう)に任命下さい。さすれば井上久助が会津藩にまいり、この度の「塩止め事件」の一件は郡奉行たる井上久助が私腹を肥やす為、自らがたくらんだもの」と申し開きをしてくる所存だそうでございます。井上殿は命を捨てる覚悟です…と。

 新発田の御殿さま溝口宣直候は、しばらく考え『あっぱれな武士じゃ…。井上久助とな。褒美を取らす。ここへ連れて参れ』との言葉に、家老は「井上久助は本日、只今より欲深き郡奉行をと致さねばなりません。井上殿の御心は拙者と殿だけの胸に納めなければなりませぬ。」新発田の御殿さま溝口宣直候は、うっすら目に涙を浮かべ『あっぱれな武士。誠にあっぱれな武士じゃ。一言なりとも礼を言いたい。何としても秘かに連れてまいれ。』 

 その晩、久助はお殿様に御目通りを致しました。『久助、そちの気持ち嬉しく思う。そなたの忠義により新発田藩は救われる。代々…末代の末まで忘れる事はあるまいぞ。これは私の心じゃ』と藩主溝口宣直候より井上久助は「盃」を賜りました。

 井上久助は「もったいなきお言葉。久助、心おきなく会津の地へ参ります」。井上久助は盃を一気に飲みほすと深々と頭を地に伏せ、会津へと旅立つのでした。

『二度と帰らぬ旅立ち』

 その晩、お城より戻って来た井上久助は家族を集め、このように言い聞かせました。「明日よりは新発田藩郡奉行の大事なお役目として会津へ行って参る。これより先、何があろうとも拙者は武士として新発田藩、並びに出雲の守殿(新発田藩主・溝口宣直公)に忠義を尽くし武士として恥じぬ勤めを果たして参る。家族の皆、拙者を信じておくれ」とだけ言い残して会津へ出発したのでした。

 会津若松の鶴ヶ城に向かう道中の井上久助の心境はいかなるものでしょうか?

・身に覚えのなき罪を自らが被ることの切なさ…。

・新発田藩・出雲の守殿はもとより、父上の代よりの新発田藩主・溝口秀勝公(みぞぐちひでかつ)に家族を救って頂いた恩義と忠義…。

・新発田藩を守るため死を覚悟して鶴ヶ城への登城…。

私達が生活する「平成と令和の世の中」では到底、比べることも出来ませんし、これがもし私達であるのならば、我々は井上久助のように新発田藩の為に罪なき罪をかぶり、自らの命をかける事が出来るでしょうか?

 井上久助も強い決心の裏腹には「人の心」をお持ちでしょう。心中穏やかではない、不安を抱いていたことだと拝察します。

『会津藩・鶴ヶ城に登城』

 いよいよ「その時」が来てしまいました。井上久助は新発田藩安泰を肝に銘じ、自らを奮い立たせました。

大勢の役人と共に会津藩三家老の長田次郎佐エ門(おさだじろうざえもん)・佐川図書(さがわずしょ)・西郷頼母(さいごうたのも)ら3人が待ちかまえておりました。そして長田次郎佐エ門が『これより塩止めの一件について取り調べる。嘘いつわりを申すな、為にはならんぞ!』…。

 長田次郎佐エ門は井上久助を罪人扱いしてはおりませんが、他国の武士に物を尋ねるには少々失礼な言いぐさです。失礼千万を井上久助は微動だにもせず質問に答え続けるのでした。

長田次郎『井上殿この度は新発田藩より審議の沙汰「書面状」をもって申し出ている内容に間違いはござらぬか?』

井上久助は「いささかの間違いもございません。」

『しからば問いただす。当会津藩に新発田藩より塩を買い入れていた事を存じておるな!』

「勿論でございまする。」

『その塩を、ここ2~3年、送ってこなかった事については承知しておるか?』

「それも承知にござる。」

『しからば、それを指図したのはだれか答えよ!』

「拙者の一存でございまする。」

『そうではあるまい。出雲の守殿(新発田藩主・溝口宣直公候)の差し金であるな!』

「とんでもござらぬ。書面の通り。郡奉行である拙者一存にて欲をかき他国へ塩を売り着服したのでござる。」

『偽りを申すな!』と、やり取りが長く続くのでした。

 審議官の長田次郎佐エ門の眼にも、井上久助は新発田藩の一切の罪を自らを犠牲にして一人で責任背負う覚悟で鶴ヶ島城に登城していることは一目瞭然。長田次郎の心中にも「新発田藩への忠義。この男、なんとあっぱれな武士じゃ」と思い始めて来たのです。ですが立場上、どうしようもない…。『井上殿。良く御考えあれ。このようなこと、郡奉行のそなた御一人の一存で出来る事ではござらん。決して悪いようには致さぬ。どうか真実を話して頂けぬか?』

「長田殿。拙者は塩止めの罪、すべてを認めております。それにもかかわらず何を疑われるか?」

井上久助はあくまでも平常を保っています。その態度と姿勢・気品に気質、すべてにおいても罪人とは、とてもとても思えるものではありません。

 この場にいる役人達すべてが「井上久助殿は自らを犠牲にして罪を背負込むつもりだ。新発田藩を守る為に自らの身命を投げだす気であろう。そして自らの死を覚悟しているからこそ、ここまで冷静にしていられる。『新発田には見上げた武士がいるものぞ。』と感服さえみられるのでした。

 審議官の長田次郎佐エ門は揺れる心を抑え『いた仕方あるまい。ほうろくの刑を申し渡す。』

井上久助は会津藩の塩を着服した大罪人として鶴ヶ城の東に位置する刑場に連れて行かれるのでした。

 「ほうろくの刑」とは、一段高く作られた所(二尺・約66㌢)に銅板を敷き、下から炭火で真っ赤に炙った銅板の上を歩かせると言う残酷な刑でした。銅板は色を替え、嫌な煙と鼻につく臭いを出し漂っています。

『新発田藩からの大罪人』

 塩止め事件の犯人「井上久助の拷問」を一目見ようと町の衆が集まってきました。それをよそに会津の役人は「井上久助への拷問」に心を痛めた事でしょう。

 ほうろくを前にした井上久助に会津藩三家老の内、西郷頼母(さいごうたのも)が『井上殿、今一度たしかめたい。そなたの言う事。間違いござらぬか?』

 井上久助は「拙者、嘘いつわりは一言も申してござらぬ。」と落ち着き払って答えたのでした。

『そうであるか…。誠におしい男じゃ…。井上殿、会津の御殿さま(肥後守殿・松平正之ひごのかみ・まつだいらまさゆき)よりの思し召しでござる。』と、そっと風呂敷を差し出しました。中には真っ白な裃(かみしも・武士の正装)と白足袋に草履(ぞうり・履物)が用意されていました。

《一説によると会津藩側も「罪なき罪」をでっち上げ、新発田藩に対して力関係を見せつけようと、実際には江戸へ公議は出されておらず会津藩の自作自演だったという説もあります。会津藩も、ここまで話が大きくなるとは思ってはおらず、一部の役人と商人の間で操作した筈の話が、返って収拾つかず、ついには引っ込みがつかなくなりました。このことが江戸に知られれば会津藩の立場も危うくなります。藩主も役人も困り果てたことでしょう。

『井上久助が会津藩を救う。』

 私は新発田初代藩主・溝口伯耆秀勝候に救われ、生かされたこの命。会津の藩主に申し上げます。

「あなた様は会津の藩主。会津藩のことだけを考えて政治をなされてはいかがですか?某は新発田藩の罪人。私に裁きを下し、会津藩は元より我が藩、新発田藩もお救いになれば宜しい。迷うことはありますぬ」と。

会津のお殿様は有難かったでしょうね。こうして久助は新発田藩と会津藩をも救ったのでした。

 井上久助は「肥後守様の思し召し有り難く承ると」ささっと身なりを整え、灼熱の銅板の上に進んだのです。

当たり一面、白い煙と焼け焦げた肉の匂い。草履には、そそくさと火が付き純白の裃には炎が舞い上がりました。少し進んだ所で井上久助は立ち止り、会津の殿の使いの武士と三家老・役人達に丁寧に頭を下げると、何のためらいもなく「舞い」を踊り謡い始めたそうです。

らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ」

「唐衣 きつつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う」
※平安時代の歌人、在原業平(ありわらのなりひら)が「かきつばた」の5文字を歌の句頭に入れて詠んだとされます。「都から東へ下る途中、三河国八橋で美しく咲く杜若(かきつばた)を見て都に残した妻を偲び」『かきつばた』の五文字を句の頭に置いて詠んだとされ、井上久助は新発田城のお堀に多く咲く「あやめ」、新発田城の別名「あやめ城」を偲んでのことであったであろうと推測されます。
※伊勢物語を典拠にして作曲されたものだそうです。

 井上久助は謡いおわると同時に銅板を渡り終えました。その身体は見るも無残に焼けただれていたのです。

会津の武士達は井上久助を『あっぱれな勇姿よ。これぞ真の武士じゃ』と心に留め置きました。刑場に訪れた見る物すべての胸を打ち、感銘さえもあたえた井上久助。その忠義に救われた会津藩。ここまでの武士をこの様な「ほうろくの刑」で罰してしまったこと。返って会津藩は恐ろしさをも感じたかも知れません。

 「もし井上久助のような勇敢な武士が新発田藩に五万と居れば、このままこの話を収めるとは到底考えられず、又、「塩止事件」の真相が世に伝われば会津藩の名誉は地に落ち新発田藩とて黙っては居ない。」

会津藩は「ほうろくの刑」の直後にこの『塩止め事件』を、不問としました。

『斬罪の刑執行』

ですが不正を働き会津藩に被害をあたえた「犯人」とした以上、新発田藩も会津藩もこのままとはしておけません。

 井上久助はその後、万治3年(1660)10月10日、会津の御門が入ったお籠にて新発田藩と会津藩の境界付近、山内の口留番所の近くまで運ばれました。(現在の新発田市米倉)。

 推測ですが、もうここまで来ると会津藩とて、ことを収集いたしたく井上久助の身柄を息のある内に返したいというのが本音でしょう。お籠の中で息絶えてしまおうものなら新発田藩の報復が恐ろしい。一方、新発田藩は井上久助のお陰で会津藩との「塩止事件」が解決し。ことの収集に漕ぎつける。今後このような「言いがかり」で再び事件が起きるのはごめんこうむりたい。久助の果敢な姿をもって、まずは事の収集と火の粉を消すことが第一。

 双方の「返す・返さぬ」の押し問答の後、久助は両藩の役人立ち合いの元、会津藩の手で首をはねられたという事です。

会津藩より「塩止め事件は不問に処す」と言うことですから「無かったこと」にする。会津藩の本音は汚点を隠したいと共に、井上久助のような武士が新発田藩に沢山いるとするならば、会津藩とて立場が危うい「不問に処させて下さい。」でありましょうか?

 押し問答の末、『罪人は新発田藩には入れられません。』と新発田藩からの要望に会津藩は引き下がり、井上久助の亡きがらは、もともと井上家が納めていた領地、新津(現在の秋葉区・東島)の日蓮宗妙蓮寺に葬られました。

 また罪人には戒名が与えられませんでしたが、ご両親が眠るお墓の前に「妙法蓮華経」と刻んだ「五輪の塔」(供養塔)を建て、埋葬されたと新発田藩史誌に記されています。

『本音と建て前。新事実が明かされる』

 ですが実際には新発田藩の「武士の寺」、法華寺に埋葬されていました。法華寺の過去帳には井上久助の戒名記されており、当時、役所の戸籍課も兼ねている寺院の過去帳に(この時代は寺院は政治と関係のない治外法権・誰にでも平等で入れる施設)過去帳に記されていると言うことは、まず間違いのないことでしょう。

 会津藩との『本音と建て前』で新津に埋葬したという「建前」を残し、実際には新発田藩の中心地、しかも武士の寺の一等地に埋葬。当時の新発田藩の武士の誠意と、町民の粋な計らいなのでしょう。

『烈士井上久助』

井上久助のお陰で新発田藩の一大事は救われました。こんなにも素晴らしく「目に熱い思い」を感じる歴史が新発田にあるのです。この勇姿、心に秘めた熱い「魂」を忘れる事なく誇りに思い、後世に継承していきたいですね。

 そして自らを罪人として新発田藩を救った井上久助を偲び、称え、武士の魂を新発田の地に伝えるがごとく井上久助の死後268年を経て昭和3年(1928)当山(新発田市・法華寺)に『烈士井上久助氏之碑』として建立されました。そして碑の元には井上久助の「遺髪」と「遺爪」を埋葬するに至りました。(何処かに保管してあったのでしょうね。)

 烈士井上久助。その子孫は当山の檀徒としてご健在です。これも新発田藩を救った井上久助の御遺徳の限りと拝察いたします。新発田に住む私達が特に、忘れてはならない事柄ですね。罪人とし処理されてしまいましたが、本当は新発田を救ったスーパーヒーロー。

 残念なことに現代の私達が知る歴史の資料には「建前のみ」が記載されました。

「真実の歴史・本当の井上久助」が明らかになり、汚名が返上されるように。幼き頃に初代新発田藩主・溝口秀勝候に受けた御恩を、今度は初代新発田藩主が愛した新発田を救う為に、自らの命を投げいった井上久助。

 『知恩報恩(ちおんほうおん)』恩を知り恩に報いた烈士。こんなにも藩を愛した立派な武士が歴史の闇に葬られるやるせなさ。ぜひ「大河ドラマ」あるいは「社会科の教科書」に載るまで活動して、新発田市民の誇りになれるようにこれからも活動していこうと思います。また当山では「烈士井上久助氏」の御命日、毎年10月10日に近い(土日・祝日)に合わせ報恩法要を行っております。361年の時空を超えて現代の新発田市民が井上久助さんに感謝の微志を述べる「親を大切に、先祖を尊び、自分を考える」『現在を知り、過去を察し、未来を作り上げる』本当に大切なことですね♪

  • カテゴリー: 未分類
  • 投稿日: 2019年10月06日
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