あの松の見える山に法華の寺を建てよ

平成30年3月の法華経講義

去年の9月からお休みしていた『法華経講義』半年ぶりの開催です(*^^)v今回の荒行で感得した「水神相承」水神様と八大龍王・四天王等々の幣束に荘厳された御宝前。再々行の壱日間、荒行堂にお付合い頂き一緒に修行をさせて頂いた七面大明神様♪あんな寒い所にお連れして本当にすいません(^_^;)でも御一緒に「やり切って来ましたね(*^^)v」我が家は本当に嬉しいものです!一緒に帰って来れて一安心♪御参加の皆さんもホッとして七面様との御対面です!荒行堂で新たに養った経力で沢山の人を導いて下さいませ!さてさて今回は97回目の法華経講義。『如来壽量品第十六』は今回で8回目。お自我偈の「大火所燃時・我此土安穏」にポイントを絞ってお話しました。

努力する人も、遊び戯れる人も、人生(娑婆で過ごす)の時間は決まっている。ではなぜ何故、両者は分かれるのか?「どうせ一度の人生だから好きな事だけをして楽をしたい。」人間の本音。何が間違っているのだろう?何がいけないの?お釈迦様はこの様に仰る。

・一生は、これっきり一回の人生と捉えるのか?

・一回の人生が輪廻転生し、次に生を受けた時に繋がるのだろうか?

この様に例えると、お釈迦様の説く「永遠の寿命の中で生きる」と言う意味が理解できるのではないでしょうか。『大火所燃時 我此土安穏』目の前の試練に見舞われた時(大火)。「いや、ここからが始まりなんだ!」(安穏)。教えに触れた時、永遠なる「時」永遠なる「寿命」の中で生かされる事だろう。自分だけが良いのではなく世の中の一員として生きること。世の中で「生かされる自分」。「どうせ一度の人生だからこそ」逆に努力をし、亡くなってからも子々孫々と語り続けられる自分にならなければならない(人間修行)。私達は亡くなるが「無くならない」。教えの中で生き続ける。これが信仰。「子孫に残す先祖の教え。後ろ姿」私はどの様に語り続けられるのか?この度も学び多き講義になりました(*^^)v明日はお彼岸のお中日。法華寺のお彼岸法要は10時から法話。その後、永代供養・御祈祷・無縁墓地参拝と続きます。どなたでも御宗旨問わず御参り出来ますので、どうぞ御参加下さい♪生きる意義と素晴らしさが伝わる機会になりますよ(*^^)v

  • カテゴリー: 未分類
  • 投稿日: 2018年03月20日
ページトップへ