日蓮聖人佐渡御出立&御赦免750年の法要
令和5年3月14日。日蓮聖人が佐渡ご流罪をとかれ御出立されて750年の御聖日✨まずは令和3年12月6日に残念ながら焼失した一谷妙照寺様の復興祈願🎤当時、越後寺泊に出向する船が停泊する真浦に向かう為にこの海岸から出船されました。一説には陸路の説もありますが伝承があるのだから船でしょう(;^^)/日蓮聖人を偲び集落の人々の手で建立された日蓮堂(法華堂)にて日蓮聖人佐渡御出立&御赦免750年の法要が厳修されました。およそ100年振りに修復された日蓮聖人像。聖人はこの真浦の地を後に柏崎、そして鎌倉へ向かわれます。御出立の夜半。まだ薄暗い時間に佐渡で教化した弟子や篤信の御信者さん方に見送られ🚢
うっすらと本土へ旅立つ日蓮聖人へ、たまらず御題目をお唱えし聖人も御題目でお応えすると揺れる海上に月明かりに照らされて御題目が浮かび上がりました。これがこの地に伝わる「波題目」。船元・永井家に格護されている薄墨のお曼荼羅。宝物館や美術館でガラス越しで拝見することはあっても直接、配したのはこれが初めて(^人^)
佐渡で日蓮聖人の御心を感じることが出来ました(*´з`)「佐渡島信徒たちとの別れ」 ~日蓮聖人 真浦ものがたり~
日蓮聖人が佐渡御流の御赦免を受け、本土へ向かわれた出船の地が「真浦の津」である。佐渡在島中のお住まいであった塚原三昧堂(現根本寺)・一谷妙正寺に比べて、あまり訪れる機会のない霊地。また「日蓮宗檀徒」ではなく「真言宗信徒」が多い地域集落の方々の手によって長く護持されて来た、きわめて稀有な御霊跡です。
文永11年(1274)3月8日に赦免状が佐渡の日蓮聖人の元に届き、その5日後の3月13日に一谷の地を出立されました。真野湾に面した小さな港「塩屋崎」《渋手の霊跡》から乗船し(※陸路の説も有り)当時、越後寺泊へ渡る浜港となっていた真浦へと向かわれました。この地に到着された13日と翌日14日の二泊滞在されたと伝わっている所です。
いまだ日蓮聖人の命を狙う者たち。それを避けての急な御出立でしたので真浦の地に泊まるべき家もありませんでした。そのため海蝕洞窟に身を休めて夜風を防ぎ一夜を過ごされました。
翌日この地の郷士、永井三郎兵衛家は日蓮聖人を丁重に迎えて御供養を捧げ、一夜の宿を提供されました。そして永井家は寺泊に向かう船を仕立て、15日の夜が明けきらない頃に、聖人ご帰倉の船は真浦から船出をされたと伝わります。その折、日蓮聖人は永井家に対し「船元」の屋号を授けると共に、後年「薄墨のお曼荼羅」を授与され、当家で大切に格護されています。
『月あらたなる夜に信心をこらし海上を見れば、波のあや題目の文字をなすとかや』
阿仏房夫婦をはじめとし、心通わせた信徒達、島での教化を託されたお弟子さん達が浜を離れ行く日蓮聖人を乗せた船を見送られます。まだほの暗い時刻、うっすら遠ざかる日蓮聖人に向かって、たまらず見送りの人々が手を合わせ御題目を唱え始めました。聖人がそれにお応えされて御題目を唱えると、船に揺さぶられた海面の月影が水上に「南無妙法蓮華経」の銀字となって現れました。
それ以来、新月の夜半にこの海に向かって一心に唱題すると月明かりに照らされ波間に御題目の文字が浮かぶと伝承されています。これが真浦に伝わる「波題目」です。
真浦を出港した日蓮聖人一行は、暴風雨に遭い予定していた越後「寺泊港」ではなく「柏崎の岬」に着船することとなりました。無事に上陸できたことを諸天善神に感謝し、八幡台菩薩を中心に三十番神を合祀したのが柏崎番神堂の縁起です。
※伝承では「佐渡から戻る聖人の首を討とう」と、数十名の念仏信者が寺泊に待ち構えて居たとも伝わっています。