開目抄奉読会( ..)φその②
塚原三昧堂の内陣・御宝前。読誦会の時にお開帳して頂き立派なお祖師様を拝見出来ました(#^人^#)13時から再び竹中貫主様に導師をお願いして法味言上。今度は簡単に(^^)
上下二巻の大作「開目抄」内容を吟味できるようにユックリ奉読させて頂きます(#^^#)御宝前を中心に左右に分かれ交互にみんなでお読みしました。
「開目抄」 (かいもくしょう)
日蓮聖人箸。文永8年(1271)11月佐渡塚原三昧堂到着と同時に執筆を始められ翌年2月に完成。著述の理由は、大きく3つ。
①32歳での立教開宗から佐渡流罪までの19年間、法華経の弘通は迫害と受難の連続であり、その為に弟子信者の中からは退転するものが続出した。日蓮聖人の布教と迫害に対する弟子信者の疑問をはらう為。
②末法の時代を受け、正しい教えの導師が日蓮聖人であることを明らかにする為。
③流罪地、佐渡に於いて死を覚悟した日蓮聖人が「かたみ」として弟子たちに残す為。
題名は人々の盲目を開く意味で、法と人とに迷う日本の人々に日蓮聖人が法華経の行者・末法の時代における師であることを示すところに意図があり『人開顕』の書と言われる。
内容は、まず末法の導師を明かすに先立って、末法の衆生が信ずべき正法が法華経本門の肝心、一念三千の法門であることを明示する。そして法華経が難信難解の法であることを講じて日蓮聖人の改宗以来の立願と受難について述べ、声聞・諸天・菩薩・諸仏は法華経によって成仏したのだから、法華経の行者を守護すべきであると説き「三類の強敵」法華経の行者は誰であるかを示す。ここに日蓮聖人こそが末法の導師であることを宣言し、三大誓願が発表される。
そして穏やかに説得する摂受と、強く責めたてて迷いをはらす折伏のいずれが末法の弘教法として適当であるかを論じて、謗法(仏法をそしること)の盛んな日本では折伏による布教を優先させるべきと決する。日蓮聖人三大部・五大部の1つ。
《補足説明》
・「開目」と同意。「日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳あり」《報恩抄》
・龍口法難~佐渡法難にかけては幕府による迫害を受けて、弟子・檀越に動揺がみられ退転者が続出した。
「鎌倉にも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候」《新尼御前御返事》
「日蓮御房は師匠にてはおはせども余りに剛(こわ)し。我等はやはらかに法華経を弘べし」《佐渡御書》
「法華経信仰者は諸天に護られる筈なのに、なぜ次々と難に遭うのだろうか?日蓮聖人は法華経の行者ではないのではないか!?」という弟子・檀越らの疑念・疑問に対し開目抄を通して答える必要があった。
・末法の布教方法には、穏やかに説得する「摂受」と、強く責めたてて迷いをはらす「折伏」の2通りがある。
「法華経の安楽行品に説かれるように無智や悪人が国中に充満しているときは摂受による布教方法を。また常不軽菩薩品に説かれるように邪智の人や法華経を謗る人が多いならば迷いをはらす折伏による布教方法を選ぶべきであると。
《その他》
・塚原三昧堂。「一間四面」…現在の一間(1.8メートル)とは違う。身舎(もや)の柱の数と庇(ひさし)が四方へ張り出している建物の形をいい、最大で8畳ぐらいの広さの建物だったと言われる。
・『開目抄』は日蓮聖人の四百以上ある御遺文の内、最長編。
・佐渡期の御遺文は60編ほどあるが、その内の三分の一に「法華経の行者の受難」に言及している。
・「つらい・受難・寒い」佐渡での生活から育まれた点が強調されるが開目抄で自己を省みる厳しさの一方、弟子を思いやる日蓮聖人の優しさ、檀越との慕わしい交流も佐渡での聖人に見られる。
「さればつらかりし国なれども、そりたるかみ(髪)をうしろへひかれ、すゝむあし(足)もかへりしぞかし」《国府尼御前御書》
『佐渡の国は確かに苦痛に満ちた所ではありましたが、いざ赦されて鎌倉へと旅立ことになると、離れがたい心気持ちが沸き上がって、剃った筈の後ろ髪を引かれ、踏み出した足を元に戻したい気持ちが起きてしまう。』
・佐渡に随伴されたお弟子様の視点
身の回りのお世話をする為に同行した弟子の数は数人。白蓮日興上人・佐渡日向上人・日頂上人が挙げられる。
「或る記に云く、佐渡公、伯耆公二人佐渡御参あり」《元祖化導記》…佐渡に渡った初期頃。
「是へ流されしには一人も訪人もあらじことこそおぼせしかども、同行七八人よりは少なからず」《呵責謗法滅罪抄》
まじかで日蓮聖人の姿を見ていた若い仏弟子たちの思想形成にとって佐渡流罪随伴の影響が多大。
白蓮日興上人は佐渡期の御遺文を何度も書写し、日蓮聖人のことを「仏」・「仏聖人」と表した。