あの松の見える山に法華の寺を建てよ

あの時のお顔が忘れられない。

雪が深々と降る日に身延山高校の校長先生から連絡がありました☎『昨日の朝、小倉先生がお亡くなりになられたぞ。よくお前達のことを話していたからさぁ…』平成5年。当時15歳、中学を卒業し単身、身延山に乗り込んだ( `ー´)ノ

自分の無謀さを知り・両親に護られて育ったことを知り・僧侶になる厳しさを思い知らされた(/ω\)24時間監視付き👀完全な縦割り社会の上下関係。自由時間や休憩時間⏰歯を見せて笑うことさえも許されない。

そんな生活の中、励まし続けてくれたのは小倉先生でした。

先生曰く【ウチのお上人から聞いてるわよ♪本山生は生意気で教室に入るなり直ぐに寝るわ、言うことを全然聞かない奴らばかりだけど、考えてみれば幼心で自家を出て誰も護ってくれない初めての僧道生活。身も心もズタボロなんだ!大目に見てやってくれ♪】だって!。

音楽室の窓を白布で閉ざし、先輩の監視を遮った先生は「おにぎり握って来たから遠慮しないで食べなさい🍙私の授業は睡眠学習。時間が勿体ないから早く寝な💗」←遠い山梨の地で両親が居ない生活の中で、母親が見つかった気持ちで一杯でした(/ω\)

身延町には「耳鼻科」が無く電車で30分かけて🚃隣町の鰍沢の耳鼻科へ行った時のこと。過労とストレスからか?鼻血が止まらず病院で血管を焼いてもらった帰りのこと。たまたま小倉先生が車で通りがかり…

【あなた達どうしたのこんな所で?】←コレコレ&シカジカでと説明すると、御自坊でお昼ご飯を御馳走して下さり5歳になる息子さんを連れて来ては【将来この子も、こんな苦労をしなきゃダメなのかしら?その時は面倒みてね。身延まで送ってあげるから、その間もシッカリ睡眠をとりなさい♪】

時が過ぎ⏰夏休みが明け2学期突入。身延山(本山)の仕事が忙しく滅多に学校に通えなくなり、御礼を伝える前に気付けば小倉先生は学校をご退職されていた( ゚Д゚)

あれから20数年⌚

平成29年の大荒行堂。再々行(400日目)の修行の折、かつて5歳だった小倉先生の御子息が初行で入行。あの時の「御恩返しとばかりに面倒をみよう💗」入行前に小倉先生に連絡すると…

【甘やかしたのなら、あの子の修行にならなわ。息子の姿を遠くで見守ってあげて!】←そんな訳には行きません(‘ω’)ノ近くで見守り励まし続けますよぉ~っと伝えて居たのですが…。

頑張り過ぎた彼は、つま先から膝まで膨れ上がり、物凄い「あかぎれ」で膿の様な体液が止まらずに流れ出し、やむなく退堂。

翌日12月11日に小倉先生と旦那さんが守り切れなかった私達に【息子に声をかけ続けてくれて、心配してくれて本当に有難う♪】と面会所に訪ねて下さったお姿が忘れられません。

高校1年生の時に私達は先生に助けて頂いたのに、御子息の支えになれなかった悔しさに涙を堪えることが出来なかった苦い思い出。

時を得て令和4年11月に彼は日蓮宗加行所(大荒行堂)の初行に再チャレンジ。この度めでたく初行成満されました。御子息の帰山を心待ちにされていた小倉先生。無事にお寺に戻って来た御子息の姿をみて一安心したのだろうか?一週間後65歳の若さで霊山浄土へ旅立ちになられました。
御自坊へ小倉先生のお顔を見に枕経🎤お別れに行って来ました。「あの時のまんま」の優しいお顔。

御自坊から見える富士山が素晴らしく、きっと先生もこの富士山を見て、志高く・汚れなく・精一杯にみんなを助けて生き抜いたのでしょうね。先生にお世話になった分「その志を引きついで」精一杯に誰かの為に努力を惜しまず満足の行く臨終を、私も迎えようと思います(^^)/

小倉先生、本当にお世話になりました。

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  • 投稿日: 2023年02月26日
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