あの松の見える山に法華の寺を建てよ

宗報1月号に掲載させて頂きました♪

毎月1回発行される日蓮宗教師用の「宗報」
その中に「青年僧がおもうこと」というページがあり
今回、新潟県東部青年会長として
投稿させて頂きました(^^ゞ

全国紙に載るって滅多な事ではないので緊張しますが自分の考えを宣誓出来るというのも有難く、本当に貴重で良い経験をさせて頂きましたm(__)m


新発田は昨日から寒行が始まりました!
毎月19日「七面大明神」様の御縁日に合わせ始めた
「法華経講義」も今年で9年目に入り(*^^)v
法華経のちょうど半分。安楽行品まで進んで来ました。

檀家さんや、そうでない人も「笑顔になれるお寺作り」を目指し、これからも精一杯努力・精進して参ります(*^^)v

⇓ちなみに以下の文が今回掲載された原文です⇓

「共に喜ぶ」  新潟県東部日青会長 本田義昌
 
朝のお勤めをしていると、吐く息が白くなり境内を見渡せば木々も色を替える紅葉の季節。お寺が最もお寺らしく凛とした空間を味わうことが出来る朝の本堂。この様な神聖な空気を檀信徒の皆様に「お裾分け」したいものです。
 寺離れ・墓離れ・葬式離れのいわゆる三離れが嘆かれる中、当山も例外ではありません。確かに信心の厚い一生懸命な檀信徒も居れば、普段からお寺との付き合いや会話すら成り立たない方も居ります。
 先日テレビのニュース番組の中で、大手企業が運営するスーパーの食品部門の戦略で、様々な目線での商品の開発と販売、まさに「消費者の目線」に立って商品のアピールをしている映像が流れていました。世の中のニーズに応えるべく、アレルギー表示や食材の産地など。商品が一番美味しく一般家庭の食卓に並ぶ時間を逆算して新鮮な物を取り揃えるといった働きかけ。コメンテータ―からは「大手企業なのに私たちの目線まで下がって来てくれて本当に有難い限り。私たちの生活を考えてくれていることに嬉しく思う。」と話していました。
 本来、この生活の中で有難がられていたのは、かつては寺院を初めとする「心の充実」を図る宗教の筈ではなかったでしょうか?
私たち僧侶の停滞なのか、それとも世間様は物質的な物や違う方向に興味が移られたのでしょうか? 両者はたいした問題ではないと考えます。問題なのは、そのことに気付いても見ようとしない「臭い物には蓋をし続けてきた」我々僧侶ではないでしょうか?
 私たち僧侶は寺院というイメージに固執し「お寺はこうあるべきだ・こうでなければならない」という意識に安堵して省みる努力を怠って来たような気がします。
確かに浮世離れするような行為は問題ですが、本来の寺院の役割は檀信徒や地域住民の為に開放され大勢の人が集まり、生きていることに幸せを感じ、その御礼に寺院の御宝前や御先祖様にお参りする方、また心に悩みを抱える方など、色々な方がいらっしゃる中で、お互いに刺激を与え合い教えとお導きを求め寺院にお参りに来る。そのような神聖な空間であり「笑顔になれる場所」ではなかったのかと私は考えます。
 世間の目は正直です。そして冷静な視線で寺院という物を捉えていることでしょう。必要が無ければ排除されてしまうかも知れません。真剣に寺院に救いを求める方がどれだけいらっしゃるでしょうか?
今我々が最もやらなくてはならない最重要課題の一つに、信心が厚い方のお宅でも信仰の継承が上手くいかず、次の世代に繋がるのかどうか分からない時代です。だからこそ信仰の相続を上手く促し、坊さんの為の信仰ではなく、各家庭・家族・個人のレベルで「心の在り方」を、幸せを感じてもらい自然に手を合わせられるような気持ちを作りださせることが出来るのは、先の大手企業ではなく我々僧侶の仕事ではないでしょうか?
しかし「どうやって寺院と檀信徒の関わり合いを作って良いのか解らない」という話をよく耳にします。
実は私も解りません。ですが、よく解らないからこそ手探りで試行錯誤しなければならないとも思います。私が住職を務める法華寺では月一で「朝粥の会」や法華経の理解を深める為に檀信徒と共に勉強会などを行っております。行事の案内文には「本当にお寺に来て欲しい」と願いを込めて相手に伝わるような配布物の工夫をしています。
まずは「お寺に来て楽しかった」と感じてもらえるような行事に従来の物を変化させていきました。
お金を出せば何でも買える風潮です。もっと言えば良い物が安く買える時代に、人々の心の充実を促し、自然と手を合わせ喜びと感謝の気持ちに気付かせてあげられるのは我々僧侶にしかできない筈です。
心の時代とも言われる今の世の中で最も大切な使命を与えられているとも考えさせられます。
今この平成の世の中にお釈迦様、日蓮聖人がいらしたら、この時代に適合した布教の方針を定められるだろうと思います。
なぜ我々僧侶が動かないのか?動けないのか?
個々が世に言う「寺に胡坐をかく坊主」といわれる由縁ではないでしょうか。私はこの言葉を聞くと、悔しくてなりません。だからこそ自坊の発展ではなく檀信徒の信仰の発展に尽力したいと考えます。
『諸悪膜作・諸善奉行』
私の恩師がよく口にされていました。良いと思う事はとことんやれ。間違ったと感じた時には「どのように間違ったのか?」自問自答して己と時を省みろ。そこに諸天善神が現れ、変化の人を遣わして法華経を行ずる人を助けて下さる。まずは行動だ。動き出せば物事が必ず動きだす。まずは自分が実践しろ。そのことに尽きる。との事でした。
未だ結果は出ておりません。ですが私の自坊も確実に動き始めております。檀信徒の皆さんが変化の人となって我々僧侶を助けて下さいます。 
時にはぶつかり合い、時には理解し合い。共に喜び共に笑い。「やることが、なすこと」だと思います。生意気を言って申し訳ありませんが、自身の誓願であり皆で良くなって行きたいと思い筆を下ろさせて頂きます。九拝 
  • カテゴリー: 未分類
  • 投稿日: 2016年01月21日
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