日蓮聖人と寺泊
文永8年(1271)10月21日の夕方、日蓮聖人は寺泊の津に着きました。昨日はこの御聖日に合わせ寺泊の法福寺さまの祖師堂で「寺泊御書」を拝読。宗祖の御心を感じさせて頂きます。ちなみに画像は本堂(;^^)祖師堂は階段を下りて少し離れた所。写真を撮るのを忘れてしまいました。「寺泊御書」を拝読し一節ずつお集まりの檀信徒と共に書写させて頂きます。 文永8年(1271)10月21日の夕方、日蓮聖人は寺泊の津に着きました。津とは港のことで渡航する船着き場がある所を指します。寺泊付近には「渡戸駅」(わりへ・わたりへ)と言う港があり、ここから直線距離にして46キロの佐渡ケ島の松崎駅へ向かうのです。古来よりここが「流罪人」が佐渡へ渡るルートでした。現在の暦で言うと11月末。冬の季節風が容赦なく吹き付け、海は大荒れの時期です。
日蓮聖人はここ寺泊で筆を執り、旅路の様子などを鎌倉のお弟子さんや檀越たちへ知らせるべく、この『寺泊御書』と呼ばれるお手紙をしたためられました。書き上げられたのが「10月22日酉の時(午後六時)」。日本海(北海)の海鳴りを聞きながら御執筆だったのではないでしょうか?
冬以外には佐渡へ渡る漕ぎ手も2人で良いのだそうですが、この冬の季節は8人の漕ぎ手が必要だっと伝えられます(中尾堯氏「日蓮」)。日蓮聖人は6日間、海上の天気が良くなるまで、この寺泊に逗留されました。『これより大海を亘って佐渡の国に至らんと欲するに順風定まらず、その期を知らず』(いよいよ日本海の大海原を渡って佐渡へ向かおうとしているが順風が定まらず、いつ渡れるか見当がつかない)と示されます。
『寺泊御書』は、早くから日蓮聖人に帰依した有力な檀越、富木常忍氏に宛てられたお手紙ですが、この中で受難こそが末法の時代の「法華経の行者の証」であることを述べられます。幕府に捕縛され「流罪人」となった日蓮聖人には弟子・檀越の中からも聖人の布教姿勢に疑問が沸き起こりました。彼らの動揺は大きいものがありました。その頃のことを日蓮聖人は後に振りかえられて『千人のうちの九百九十九にものぼる信仰の退転者が出た』と述べられます。この『寺泊御書』の余白には『心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし』(鎌倉に居る志がある方々は皆で集まって、この手紙を聞いて欲しい)と書き添えてあります。富木常忍氏以外にも読み聞かせて、よく理解して欲しいと言う日蓮聖人の細やかな心遣いが感じられるのです。(※この部分は現在の御真蹟には残念ながら失われています。)
また、これから佐渡へ渡るというご自身の境遇を省みず、鎌倉で聖人と共に捕まり、土の牢にいまだ囚われの身となっているお弟子さんのことを案じられ、彼らの様子と安否を知らせて欲しいと伝えています。
日蓮聖人を我が身として受け止めたならば…。どんな気持ち境遇だったのでしょうか?色々なことが心に感じられました。