日蓮聖人絵伝
「法華経」の弘通に命をかけた、日蓮聖人の波瀾の人生をご紹介します。
『聖者の誕生』
日蓮聖人は貞応元年(1222)2月16日に安房国東条郷(あわのくにとうじょうのごう)現在の千葉県は天津小湊町でお生まれになりました。
父「貫名次郎重忠(ぬきなじろうしげただ)」戒名『妙日尊儀(みょうにちそんぎ)』(正嘉二年(1258)二月十四日逝去)
母「梅菊(うめぎく)」戒名「妙蓮尊儀(みょうれんそんぎ)」(文永四年(1267)八月十五日逝去)
の元にお生まれになり、母である梅菊は「日天子(にってんじ)」が蓮華の花に乗って梅菊の懐に入る夢を見て懐胎(かいたい)なされ、誕生の折には庭先に清らかな泉が湧きいで海は煌びやかに光だし当り一面、日蓮聖人の御誕生を祝うがごとく沢山の大きな鯛が海面に姿を表し、偉大な聖者の誕生を飾られたそうです。
又、庭先の湧き水をもって産湯(うぶゆ)に使ったという言い伝えが今日までも伝わっております。
そして後の日蓮聖人は、幼名「善日麿(ぜんにちまろ)」と名付けられました。
天福元年(1233)日蓮聖人が12歳の時に家の近くにある清澄寺(せいちょうじ)に勉学に入り…
(当時は学校自体が無く、勉強と言えばお寺に学びに行くのが通例です。)
師匠である「道善房(どうぜんぼう)」の元で仏門や学問を学び、時おなじくして「薬王丸(やくおうまる)」と名前を改められました。
16歳の時には正式に出家得度し「是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)」と名のられました。
是聖房蓮長は、清澄寺のご本尊、智慧の神さまである「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)」に願を掛けられ「日本第一の智者となしたまえ」と祈念し、お堂に籠られ21日間の不眠不休の修行に入られました。そして21日満願の日には『生身の虚空蔵菩薩より大知恵を給はりしことあり(中略)明星の如くなる大宝珠を給りて右の袖にうけとり候(清澄寺大衆中)』と、虚空蔵菩薩から「智慧の宝珠」を授かったのです。その時の様子はこのようにも伝わっております。満願の朝、血をどっと吐き、周りの笹を真っ赤に染めて倒れてしまいした。しかし是聖房蓮長は疲れもなく心身爽快であり、当たりが明るくなったと伝えられます。これは虚空蔵菩薩のご利益で「凡夫の不浄の血を吐いて清浄な身」となられたのでしょう。この地に生える笹の葉に斑点があるのは、この血のあとで「凡血の笹」とよばれる様になったとの事です。このことがあってからは、「一切経(いっさいきょう)・全ての御経」を見るに、その要旨がすんなり頭に入り、その内容や勝劣が手に取るようにわかるようになったといわれています。その後、清澄寺の書物をすべて読破した是聖房蓮長は師匠の道善房に許可を得て、鎌倉・比叡山・高野山などに遊学し勉学に励まれました。沢山の宗派、諸経の一切を学ばれた是聖房蓮長は「法華経」こそが末法の世のすべての人々を救う事のできる唯一の経典、教えであると心に確信したのです。
『新たなる確信と決意』
そして、十有余年にわたる遊学を終えて師匠である道善房の元へお戻りになり、清澄寺にて初の説法に挑みました。建長5年(1253)4月28日の明朝、清澄山の山頂「旭森(あさひがもり)」にて当時の飢饉や疫病の諸問題の暗闇を照らすが如く偉大なる太陽に向かって、声たからかに「お題目・南無妙法蓮華経」を唱えられ、これをもって聖人自身の「立教開宗(りっきょうかいしゅう)」を誓われたのでした。御年聖人32歳のこと。新たに太平洋から昇る太陽のように人々を照らし、蓮華のように清らかな教えを礎に「日蓮」と名を改められたのでした。
『受難の幕開け』
日蓮聖人は乱れてしまった世の中、「末法(まっぽう)の世」を救えるのは「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」のみであるとし、その事で他宗派と論争や対論・問答し、他宗派の教論を当時の世の乱れと時代背景を重ねあわせ問答した結果、打ち破り、強烈に批判されました。このため、他宗派と激しく対立「何が真実であり・何が間違っているのか?」対論し、その結果「少々の難は数知れず、大難四箇度なり」と日蓮聖人が晩年の著書の中で自ら語られるように、その生涯は迫害と受難の連続でした。
しかし、これはまた日蓮聖人の生涯における受難の幕開けでもありました。清澄寺で最初の説法を行った日蓮聖人でしたが、他宗の熱心な信者であった地頭の東条景信(とうじょうかげのぶ)の怒りをかい、あやうく捕らえられるところでした。しかし、師匠の「道善坊(どうぜんぼう)」と兄弟子の二人「浄顕房(じょうけんぼう)」と「義浄房(ぎじょうぼう)」の助けにより無事に山を下り、同時に師匠でる道善坊より「師弟関係」の破棄、いわゆる破門を言い渡されてしまいました。(当時の時代背景は宗教の自由が無く鎌倉幕府が「コレ」と決めたならば、例外というものはありませんでした。また道善坊からの破門も、そうする事により清澄寺は勿論、日蓮聖人の身を案ずる師匠の優しさからだったかも知れません。)鎌倉に難を逃れ、松葉谷(まつばがやつ)に草庵を構えらた日蓮聖人は、この地で法華経を弘め始めました。
この頃、世の中では天変地異(てんぺんちい)が続出し、大地震・大飢饉など…まさに末法の世の世相が現れるようになり、とりわけ建長8年(1256)からの5年間には疫病・飢饉・暴風雨・大火災などの災害が相次ぎ、なかでも正嘉元年(1257)8月23日に鎌倉を襲った大地震では数万人もの死者が出たといわれ、道端に死体の山が散乱するなど想像を絶する地獄絵図を見せつけられるようだったと言います。
『末法と諫言』
日蓮聖人は、これらの災いは「誤った仏法が広まってしまった事による天の諫めである」と直感され、経文によってそれを証明しようと駿河の国(現在の静岡県)の岩本の実相寺(いわもと・じっそうじ)にある一切経の経蔵にこもり正しい教え「正法(しょうぼう)」について研鑽され直したのです。
そして二年後の文応元年(1260)7月、時の実力者、前執権北条時頼(ほうじょうときより)に諫暁の書として「邪宗を信じるが為に、このような災害がおこる。これを改めなければ、経典にあるように『自界叛逆難(じかいほんぎゃくのなん)』(国内の戦乱)と『他国侵逼難(たこくしんぴつのなん)』(外国の侵略)に見舞われる。他宗を捨て、正しい仏法である『法華経』に帰依すれば、全ての人が末法の世から救われる」という事を綴った「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」を献上しました。しかし、この諫言は幕府に受け入れられることはなく、それどころか、かえって他宗の激しい怒りをかう事になりました。
『松葉谷の御法難(まつばがやつのごほうなん)』「四大法難の一つ目」
文応元年(1260)8月27日には、松葉谷の草庵を焼き討ちされ、火にかけられてしまいす。四大法難の最初の難であります『松葉谷法難』がこれです。この松葉谷法難はお山一つ丸々焼け打ちに処された訳ですから、逃げ道もありません。そんな中、一匹の白い猿が日蓮聖人一行を山の下里へと手引したと言い伝えが残っている様に、辛うじて難を逃れた日蓮聖人は、ひとまず下総の国(しもうさ)現在の千葉県にある大信者「富木常忍(ときじょうにん)」のところへ身を寄せます。しかし、日蓮聖人はすぐに鎌倉に戻り、以前にも増して激しく他宗を論破・破折(はしゃく)をするのでありました。
『伊豆法難(いづほうなん)』「四大法難の二つ目」
鎌倉で辻説法(つじせっぽう)をされる日蓮聖人…。これを「こころよく思わなかった幕府」に、ついに捕らえられてしまいます。
弘長元年(1261)5月12日、伊豆の国(現在の静岡県)伊東へ流罪とされました。これが「四大法難」の二つ目の難、『伊豆法難』です。流罪と言えば本来なら島流しの筈ですが、日蓮聖人を良く思わない他宗派と、幕府の役人一味が「何とか日蓮の命を無いものに」と…海に浮かぶ岸壁「まな板岩」に「足かせ」をしたままの状態で縛りつけ、溺死させようとたくらんだのでした。しかし幸いにも、たまたま近くを船で通りかかった川奈に住む漁師夫妻「船守弥三郎(ふなもりやさぶろう)」が海から日蓮聖人を引き揚げ、命をつなぐ事が出来ました。その時の事を日蓮聖人は『船守弥三郎御書』に「日蓮いぬる五月十二日流罪の時、その津に着きて候ひしに、未だ名をも聞きおよび参らせず候ところに、船より上がり苦しみ候ひきところ、ねんごろにあたらせ給ひ候し事は如何なる宿習なるらん。過去に法華経の行者にてわたらせ給えるが、いま末法に船守弥三郎と生れ替わりて日蓮を憐れみ給ふか。たとひ男はさもあるべきに女房の身となりて食をあたえ洗足手水、そのほか、さも事ねんごろなる事、日蓮は知らず不思議とも申すばかりなし。ことに三十日余りありて内心に法華経を信じ日蓮に供養し給ふ事、いかなる事のよしなるや(中略)
ことに五月の頃なれば米も乏しかるらんに、日蓮を内々にてはぐくみ給ひしことは、日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云ふところに生れかはり給ふか。法華経第四に曰く清信士女ありて法師を供養すと云々。法華経を行せん者をば諸天善神等、或いは男となり、或いは女となり形を替えて様々に供養して助くべしという経文也。船守弥三郎夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養すること疑いなし。しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生まれ替わり給ひて日蓮をたすけ給ふか…」と船守弥三郎夫妻に感謝の念と御礼を伝える日蓮聖人の心境と気持ちを伺い知る事が出来るのです。
のちに日蓮聖人は、この地で難病に苦しむ地頭伊東八郎左衛門(いとうはちろうざえもん)をご祈祷によって全快させました。これにより伊東一門は法華経に帰依(きえ・身を持って信じる事)する事となりました。日蓮聖人は流罪がとかれ鎌倉へ戻る弘長3年(1263)の2月まで、伊東氏の外護(げご)を受けながらの生活を送りました。この地にとどまった約2年の間に日蓮聖人は「教機時国鈔」(きょうきじこくしょう)を著され、その中で「法華経こそが末法の世を救うための経典」であることを「五義(五綱の教判)」によって論証されました。
『母、梅菊の蘇生』
鎌倉に戻った日蓮聖人は、翌年の文永元年(1264)10月に父「貫名次郎重忠(ぬきなじろうしげただ)」の墓参りに訪れた時、母を訪ねんと生れ故郷の小湊へ帰省されました。しかし、ちょうどその時、母「梅菊」は大病で息を引き取られたのでした。日蓮聖人は仏天に母の蘇生(そせい)を熟祷し、不思議にも母、梅菊は息を吹きかえし更に4年寿命を延ばされたという歴史的文献が、あまりにも有名な所です。それを裏付ける証拠の様に千葉県安房小湊の『誕生寺(たんじょうじ)』(日蓮聖人のお生まれになった場所に建てられたお寺)には「蘇生願満の祖師(そせいがんまんのそし)」として有名で、明治天皇の子息に当たります後の大正天皇は、生後まもない頃にひだちが良くなく、大正天皇に着せる産着を誕生寺・蘇生願満の祖師の由来にすがり「願掛け(がんんかけ)」をし闘病平癒(とうびょうへいゆ・病気封じ)の御祈祷を受け、これが見事に治り「菊の御紋」が贈られました。また誕生寺境内には天皇家(有栖川宮様)から寄進された建物と御廟所が今なお保持されております。
『小松原の御法難』「四大法難の三つ目」
日蓮聖人は再び安房の国(千葉県)での布教活動を開始しました。『工藤吉隆(くどうよしたか)1233年〜1264年』は鎌倉に於いて日蓮聖人の説法を聴き朋友、荏原義崇・池上宗仲・四条金吾・進士善春などと共に念仏を捨て法華経を信じ日蓮聖人に帰依した「大檀越(だいだんのつ・信者)」です。その工藤吉隆の招きにより工藤邸に向かう途中、文永元年(1264)11月11日の夕刻、東条郷の松原大路(現在の千葉県鴨川市)にさしかかった所で襲撃に合います…。
話はさかのぼって建長5年(1253)立教開宗のとき、日蓮聖人は「末法の衆生は法華経によってのみ救われる。念仏は無間地獄に落ちる教えである」と清澄寺で最初の説法を行いました。「熱心な念仏の信者」であった地頭の東条景信(とうじょうかげのぶ)は自らの宗派・念仏を否定する日蓮聖人の事を面白く思わずに殺害しようと、手勢数百人を連れ襲撃し凶行にでたのです。
この様子を『南条兵衛七郎殿御書(なんじょうひょうえしちろうどのごしょ)』に「念仏者は数千萬方人多く候也。日蓮はただ一人、方人は一人もなし。今迄も生きて候は不可思議なり。今年(文永元年1264)も11月11日、安房の国東条の松原と申す大路にして申酉の時(夕方)数百人の念仏等に待ちかけられ候て日蓮は唯一人十人ばかりのうち物のようにあう者はわずかに三・四人なり。射る矢は降る雨の如く、打つ太刀は稲妻の如し。弟子一人は当座にて打ち殺され二人は大事にて候。自身も切られ打たれ、結句にて候ひし程にいかが候ひけん。打ち漏らされて今迄生きてはべり、いよいよ法華経こそ信心まさり候へ(中略)
いっさい世間怨多くして信じ難し、日本国に法華経を読み学する人これ多し、人の妻をねらひ盗み等に打ちはらるる人は多けれども法華経の為に故にあやまたるる人は一人もなし。されば日本国の持経者はいまだこの経文には、あわせ給はず。ただ日蓮一人こそ読持れ、我不愛身命・但惜無上道これ也」(私は身命・自らの命や苦労を真摯に受け止め、惜しむ事はない・ただ(無上道)真実の教えの為には命をかけ、これを求めると言う意)
この小松原で日蓮聖人の帰郷を聞きつけ亡き者にしようと東条景信一行は今がチャンスと襲撃、手勢の者数百人が聖人の眼の前に…。日蓮聖人側に襲撃に応戦できる者はわずかに3・4人。「射る矢は雨の如く、打つ太刀は稲妻の如し」と日蓮聖人ご自身がお述べになるように激しい来襲に、聖人一行も沢山の痛手を受け大事なお弟子さんを亡くされたのでした。聖人ご自身にも襲い来る太刀に「ハッと」自らの持つお題目が染み込んだお数珠を盾に、その数珠が聖人の御身を守らんと刃から聖人の一大事を救ったのでした。
又、斬りつけた東条景信は落馬し死亡、手勢のものは失脚しました。襲撃により日蓮聖人は眉間に三寸の傷を負われましたが幸いにも一命をとりとめ命かながら救われたのでした。これが四大法難の三つ目の難であります『小松原法難』です。(この事により冬場は眉間の傷が痛かろうと日蓮聖人の像には綿帽子が、かけられます。)また弟子の鏡忍房日暁と、急を聞いて駆けつけて来た工藤吉隆も奮戦しましたが、多勢に無勢、戦死し二人を失ってしいます。
工藤吉隆は存生の時から懐妊中の妻女に「生れてくる子供が男の子なら、日蓮聖人の弟子とされんこと」を願っていたので、妻女は夫の殉職後生れた男の子を聖人に「その旨」託したのです。遺子は出家して日蓮聖人の弟子となり長栄房日隆と号し、父工藤吉隆と鏡忍房の菩提を弔う為に、この法難の地に『妙隆山鏡忍寺(みょうりゅうざん・きょうにんじ)』を建立したのでした。
『鎌倉で立正安国論の的中』
それから4年後の文永5年(1268)の正月こと、日蓮聖人が8年前に「立正安国論」で予言したとおり、日本の服従を求める蒙古からの国書が届きました。(文応元年(1260)7月、時の実力者、前執権北条時頼(ほうじょうときより)に諫暁の書『立正安國論』を提出している。「邪宗を信じるが為に、このような災害がおこる。」これを改めなければ、経典にあるように
・『他国侵逼難(たこくしんぴつのなん)』(外国の侵略)に見舞われる。
・『自界叛逆難(じかいほんぎゃくのなん)』(国内の戦乱)で戦が起こる。
これにより日蓮聖人は他宗批判をさらに激化させ、執権北条時宗に再び「立正安国論」を献上します。さらに幕府や他宗の代表11箇所に書状を送り、公場での討論を求めましたが、またもや黙殺されてしまいます。
『龍口の御法難』「四大法難の最後」
文永8年(1271)には、他宗の人々が日蓮聖人とその門下を幕府に訴え、幕府も迫りくる蒙古襲来の危機感とあいまって、日蓮聖人とその門下に徹底的な弾圧を加えたのでした。同年9月12日、日蓮聖人は、ついに捕らえられ佐渡流罪となります。しかし、これも表向きのことで「日蓮聖人を亡き者に」と、途中の龍口(たつのくち)において侍所「所司」平頼綱により密かに処刑される事になっていました。ところが、まさに首を切られようという「その瞬間」奇跡が起きます。その時の様子を少々ご紹介いたします…。文永8年9月12日、我が祖日蓮大聖人松葉が谷の庵より召し捕らわれて、裸馬に召させられ、鎌倉の大町・小町・雪の下、大路・小路を引き廻し、名を聞くだにも恐ろしき龍の口の刑罪の場所。刑罪の場所と申しますのは、十間四面、青竹の矢来をもって結いめぐらし、矢来の外には白地に、北条家水色三つ鱗の紋を染め抜きたる幔幕を打ち張り、矢来の四方にはツク棒・サス又・抜き身の槍をきらめかし、矢来の内には警固勤番の諸侍、まなこを怒らし肘を張り、「いでとも言わば目に物見せん」と控えたり。一方小高い所には平ノ佐エ門の尉頼綱、検視の役を兼ねて床机に腰打ちかけて待ち構えたり。大聖人馬より静々と降りさせたもう。かねて設けし敷き皮土檀の上、泰然自若として『南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経』と唱題三昧。首を切ると言ってもいつでも切れるものではありません。「いつ?」かと申しますと子丑(ねうし)の刻と御妙判にあります。ただ今では午前2時3時の頃、子丑とは陰の終り陽のはじまり。昔も今も同じこと、草木も眠り、流れる水も一時は止まる頃おいです。時刻は移り平ノ佐エ門の尉頼綱の命として「や〜ぃ、太刀取り依智ノ三郎直重、時刻は来たれり日蓮が頚 早打てぃ!」下知に従い太刀取り依智ノ三郎直重スーックと立ち上がり、北条家九代伝わる三尺二寸の太刀、これぞ蛇胴丸の名剣にして鈴木弥太郎定勝が心魂こめて鍛えに鍛えし悪魔降伏の業物。鞘を払えば、明皓々たる十二日の月。その影映って物凄く、かねて用意の切柄杓。鍔元より、刃裏刃表サラサラサラ〜っと水打ちそそぎ露を切り、高祖の頸を打つ、かと見えしが三郎直重、何思いけん小腰をかがめ…「いかに日蓮の御坊、御身は高徳の出家と承わる。夜討ち強盗の罪もなく謀反殺害の科もあらず。ただ、妙法蓮華経を弘ろめんと諸宗を謗り給うが故に、今日この場の仕儀。この三郎直重も、よわいはや五十の坂を越え、いかに役柄とはいいながら老い先短き身を以って仏法弘通の出家の頸を切る。その罪、いと重かるべし。未来の程も恐ろしゅう存ずる。よって今日より改心あって念仏無間の法儀を捨て、念仏の行者になり給わば、我が身に変えても、この義を御上に申し上げ、一命をお助け申さんが如何でござる日蓮の御坊…」ああ如何にもであります。命あっての物種、これがもし我々、凡夫凡僧であったらならどうでしょう。 本日よりは仰せに従って伏鐘たたいて念仏を唱えましょう!と言うのが人情。直重が言うのもやはり人情。しかるに本化上行の御再来たる我が祖日蓮大聖人『あいゃ三郎直重殿とやら、只今の御親切なるお言葉 ありがたく承る。なれども、今や御身の言葉に従い念仏を唱え、題目の修行をやめなば年来の大願も水の泡。日蓮すで建長5年4月28日、一宗建立のその時より、かねて期したる今宵の大難。一命を法華経に捧げ奉るは、砂をもって黄金に代え、石に玉を商えるが如し。これに過ぎたる喜びなし。はや頚打たせ給え三郎直重』ゆりすえたる大盤石。いっかな動くとしも見えませぬ。今は是非に及ばずと三郎直重、高祖の後ろに立ち廻り「しからば日蓮、観念せよ!」高祖の頸はバーッサリ…。っと眼を開ければ是は如何に、太刀は刀尋段々壊。ひい・ふう・みっつ。あちらに一片、こちらに一片、手に残りしは柄ばかり。「是は仕損じたり、天下の恥辱、武門の名折れ」と柄を向こうに投げ出だし、差し添えの柄に手をかけんとせし折から江の島、辰巳(たつみ)の方より戌亥(いぬい)の方へわたって満月の如き光り物。ピカッピカッピカッァ。その速き事あたかも隼のかけるが如しく、毬のころぶにさも似たり。後ろの松が枝にかかってありと見えけるが、ややあって三郎直重の頭の上にヒラッヒラッヒラッと覆いかかれば、直重恐れおののき差し添え抜いて、突き上げんとせしが五体すくんで立木の如く、眼くらんで真の闇。後ろの方へタジタジタジィ、ウーンとばかりにのっけにそる。あたかも朽ち木を倒すが如し。折から一陣の怪風サ−ッっと吹き来たれば、柵の矢来は一時に倒れ、白地の幕は虚空に飛んで白龍天をかくるが如し。立ち並べたる幕串も一時に倒れてパタパタパタ。たいまつかかり火「フーッ」っと消えて真の闇。警固・勤番の諸侍、馬上にうずくまるもあり。あるいは馬から落ちるもあり。一町二町とかくるもあり。三町五町とわしるもあり。血へどはいて悶絶僻地(もんぜつびゃくち)。前代未聞の龍の口の大騒動。大聖人は御安泰。『我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳』あたりのあまりの騒がしさに大聖人『いかに方々、かかる大罪ある日蓮を差し置いて如何なれば遠のかるるぞ。はやはや頚打たせ給え、夜も明けなば見苦しかるらん。鎌倉武士の名折れになるぞ。』とこの期に及んでも鎌倉武士への思いやりは、大慈大悲の大聖人の御心のと尊さであります。
突如、対岸の江ノ島の辰巳(たつみ)の方角から戌亥の方角へ雷が轟き、稲妻が走りました。これにより北条家に九代伝わるという名剣。三尺二寸の太刀「蛇胴丸(じゃどうまる)」の名剣が三つに折れ、さらに聖人の頸を跳ねんとした一向に怪風と共に「もののけ」が襲いかかり、頼綱ら一行は恐れをなし処刑場より逃げるように走り去り処刑は出来なかったと言われています。これが四大法難の最後の難であります『龍口法難』です。
この後の一説には…ますます怖じ怖れたる他宗の権門の者、並びに警固の武士等、あとずさみ…。とてもとても大聖人の頸は切る事が出来ませんでしたので恐る恐る寄り集まった警固の面々「いかに方々、日蓮を如何なされるか?鎌倉中を引し、頸を切るとて龍の口へ引き出だし、このままに捨てておかれようか。これは私事にあらず、鎌倉殿へ言上せずには相成るまい」と衆議一決。宇都宮貞綱を以って鎌倉殿中へ注進する事になりました。鎌倉殿中にも龍の口に異ならず夜半、同時同刻、虚空の怪しき声ありて『正法の行者を失うならば国の柱を倒すが如し。正法の行者を失うならば国の柱を倒すが如し。』と、天からのお告げが三度、御大将北条時宗公を驚かせたのでした。「正法の行者? 正法の行者とは日蓮が日ごろ申せし言葉。その日蓮は今、龍の口断罪の時刻…」これは一大事と御大将北条時宗公 自ら硯と筆を持ち、これをしたため日蓮を許す「赦免の状」をお書きになりました。これを早馬乗りの南条七郎に手渡し「汝この赦免状を龍の口へ。時刻おくれなるば一大事なるぞ」とあわてて龍の口に向かわせたのでした。「正法の行者(しょうぼうのぎょうじゃ・仏天が認めた正しき伝道者)」日蓮聖人を諸天善神が守護するが如く、当たり一面に怪奇な現象が起こり救われたのでした。
『佐渡御流罪』
この「龍口法難(りゅうこうほうなん)」を奇跡的に逃れた日蓮聖人は同年10月(文永8年1271)佐渡へと送られたのでした。厳冬の北極寒山佐渡ケ島で日蓮聖人に用意された住居は、死人を捨てる為の『塚原の三昧堂(つかはらさんまいどう)』でした。ですがここは日蓮聖人が「種々御振舞御書」に書き遺した通り『上は板間あわず、四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし』と屋根も隙間だらけ、今にも柱が倒れそうで建物の中にも雪が積もるという荒屋です。想像を絶する寒期に凍え、飢えと戦いながら日蓮聖人は「一期(いちご)の大事を記す」と命懸けの決意で「開目抄」の執筆を始め、翌年の文永9年(1272)2月に完成させます。日蓮聖人の相次ぐ法難、迫害の連続であったこれまでの人生は、「法華経」の持経者は多くの災難に見舞われるという、お釈迦さまが法華経の「勧持品第十三」の中で予言された様に、それを実証するものにほかなりませんでした。日蓮聖人はこの事により、日蓮聖人「自らこそ」お釈迦さまより「法華経」の弘通を直接委ねられた本化上行の菩薩(ほんげじょうぎょうぼさつ)であるという自覚を強め『法悦(ほうえつ)、法華経に認められた証』を極めたのでしょう。「開目抄」の中で日蓮聖人は『我、日本の柱とならん。我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん。』と言う「三大誓願(さんだいせいがん)」を記され「詮ずるところは天も捨てたまえ、諸難にも遭え、身命を期せん」と、例え諸天のご加護がなくとも末法の日本を救うため「法華経」の弘通に一命をささげる決意を示されたのです。
『立正安国論の予言的中』
この頃、北条家は執権の座をめぐっての内紛(身内同士での争い)を起こします。これはまさに日蓮聖人が「立正安国論」の中で『自界叛逆難(じかいほんぎゃくのなん・国内の戦乱』として予言した通りの事でした。日蓮聖人の予言的中により「世の中の情勢を伺い知る力」いったい何が正しくて? 何が間違っているのか? という「先見の眼」霊感にも似たような直感に、恐れをなした幕府は日蓮聖人に対する態度を一変させたのでした。
文永10年(1273)4月には、日蓮聖人は塚原三昧堂の粗末な小屋から一谷(いちのさわ)の豪族である入道清久の屋敷へと移り住み、ここで『観心本尊抄』をお書きになります。
日蓮聖人は、この「観心本尊抄」で、日蓮教学信仰の中核である『三大秘法』である「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」を初めてお示しになられたのです。日蓮聖人は「南無妙法蓮華経」というお題目こそ末法の時代の正しき法で、このお題目を受持すること(受けた持つ事)によって、お釈迦さまの救いに導き入られると説かれたのです。また他宗でいう所の浄土ではなく、『娑婆世界(しゃばせかい)』この現実、今我々が住んで生活している「この世の中」こそが「本門の本尊」 お釈迦さまがお住まいになる浄土であると示されました。日蓮聖人は、3ヶ月後の文永10年(1273)7月8日、この本尊の原理にもとづいて、初めての大曼荼羅である「佐渡始顕の大曼荼羅御本尊」を描き示されています。
『身延へ御入山』
佐渡流罪を許された日蓮聖人は文永11年(1274)3月26日、いったん鎌倉へと戻りますが、同年5月17日には甲斐の国(現在の山梨県)波木井郷(はきいのごう)を治める地頭の南部六郎実長(なんぶろくろうさねなが)の招きにより身延山へご入山されました。そして、同年6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に草庵を構えお住まいになり、以来足かけ9年間の永きにわたり、この身延の山を一歩も出ることなく、法華経の読誦(どくじゅ)と弟子や門弟の教育に専念なされました。この間、波乱の人生を振り返りながら「時」を知ることの大切さ(今でいうTPOでしょうか?)を説いた「撰時抄」(建治元年1275)御執筆亡き旧師道善房を偲んで「恩を知り恩に報ずる事」の大切さを述べられた「報恩抄」(建治2年1276年)などを著述されています。
『両親を偲ぶ』
日蓮聖人は父「貫名次郎重忠(ぬきなじろうしげただ)」戒名『妙日尊儀(みょうにちそんぎ)』(正嘉二年(1258)二月十四日逝去)
母「梅菊(うめぎく)」戒名「妙蓮尊儀(みょうれんそんぎ)」
(文永四年(1267)八月十五日逝去)を偲び毎日、身延山の裏手にある『奥の院思親閣(おくのいん・ししんかく)海抜1,153?、山門より五十丁のお山を毎日お登りになられました。 その様子が『光日坊御書(こうにちぼうごしょ)』にこの様に伝えられています。
「御勘気の身となって死罪と成るべかりしが暫く国の外に放たれし上はおぼろげならでは鎌倉へは還(かへ)るべからず。還らずば又、父母の墓を見る身と難しと思い続けしかば今更飛立計り悔しくてなどか、かかる身と成ざりし時、日にも月にも海を渡り山を超え父母の墓をも見、師匠の有様をも訪おとずれざりけんとなげかわしく候。(中略)但し本國に至りて今一度父母の墓をも見んと思へども錦(にしき)を着て故郷へは還れと云う事は内外の掟なり。させる面目もなくして本國へ至りなば、不孝の者にてや有らんずらん。是程の難かりし事だにも破れて鎌倉へ入る身なれば又、錦を着る邊もや有らんずらん。その時父母の墓をも見よかしと深く思ふ故に今に生國へは到らねども、さすが戀(こい)しくて吹く風、立つ雲までも東の方と申せば庵を出て、身に触れ庭に立て見る也」
鎌倉幕府や時の執権の怒りに触れ、とがめを受け松葉ケ谷・伊豆のまな板岩・小松原・龍の口などの死に直面するような大難に合い、命は助かったものの…
幕府から「赦免の状(しゃめん)」は出ましたが世間体には、日蓮聖人は罪人扱いを受けたまま。無罪放免、「冤罪(えんざい・まちがわれた罪)」を正式な発表の元に解かれなければ両親や師匠には会えないし、それまではお墓参りにも行けない。真に無罪と認められるまでの我慢と考えていたのだが、今になっては会いたい気持ちで胸がいっぱいで仕方がない。両親や師匠のお墓参りには「正法の行者」としてシッカリした身なり(自他ともに認める僧侶として)でお参りしたいが、それもかなわない。今はまだ生れ故郷の千葉には戻れないが、その事を思うと…。
千葉の方から吹く風や、故郷の方から流れてくる雲を見ると、いても立ってもいられず庵をいでて庭に立って身に感じ両親のことを感じておられたのです
その時の様子、日蓮聖人の「親を思う気持ち」がこの様に伝わっています…。
日蓮聖人は毎日毎日、両親を偲び裏手の御山、思親閣に登山されていらっしゃいました。片道50丁・往復100丁のお山です。
雲や風が吹けば「両親の元から吹いて来た風ではないだろうか?」と思い偲んでお山に登られていたのです。
今日も日蓮聖人は西谷の庵にて御信者への法華経の説法をされています。その日は普段より内容が濃く、コンを詰められていたので辺りも薄暗くなってきたのです。いつものように日蓮聖人は思親閣に登られようとしましたが… 一番弟子「給仕第一(きゅうじ・だいいち)」と評される日朗上人はこの様に伝えられました。
「お聖人さま。今日は太陽が沈みかけ、足元が暗うございます。お怪我をなされたら大変です。思親閣のお山は明日お登りになられましたらいかがでございましょう」
日蓮聖人の御身を心配なされてのこと。日朗上人のお気持ちが伺えます。
しかし日蓮聖人は『日朗さんやぁ。心配してくれてありがとう。だけれども私は両親の為にお山に登って、お参りしたいのだ』
「しかしお聖人様。この薄暗闇にお山をお登りなされば下山には暗闇に変わります。心配でございまする故、お考え直し頂けませんでしょうか?」
『日朗さん。心配をかけてすまないが、私の母はどんなに疲れようとも日が沈もうとも私に「お乳」をくれなかった事はないのだよ。さぁ日朗さん!すまぬが提灯に火をともしておくれ』と、日蓮聖人の両親への思いが伝わってまいります。
会いに行きたいけれど、会いに行けない切なさ…。
お墓参りに行きたくても行けない歯がゆさ…。
現代の私達の心にも伝わるものがあります。そして現代の殺伐とした私達の時代に「足りないもの」も感じられます。日蓮聖人のこの思い…。
我々も真に感じなければならない「両親への思い」と「有り難さ」を今一度、噛みしめる事が出来るのではないでしょうか。
『聖者の旅立ち』
弘安5年(1282)9月8日に、日蓮聖人は自身の病気療養の為と御両親のお墓参りの為に、ひとまず山を下り常陸の湯(ひたち・現在の茨城県)に向かわれ、その途中、体調が思わしくない為に武蔵国池上(むさしのくにいけがみ・現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公(いけがみむねなか)の館に立ち寄りました。
同年10月13日、途上の武蔵の国池上にてその波瀾に満ちた61年の生涯を閉じられたのです。
このとき地震が起こり、季節はずれの桜が咲いたといいます。
日蓮聖人の生涯は「法華経」の弘通に、まさに命を懸けたものでした。
日蓮聖人の教えは時間を越え空間を越えて、今日まで数多く我々・人々に受け継がれています。
お題目を唱えると言う事は日蓮聖人の人生そのものであり私達に対する無償の愛であり信仰なのです。
『観心本尊抄』のなかで「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう」として、お題目を唱えることの重要さを説かれています。
「釈尊の因行果徳の二法」とは、お釈迦さまが長い時間をかけて行った修行と、その結果得られた徳のことをあらわします。「妙法蓮華経」という五字、すなわち「妙法五字」の中にこそ、お釈迦さまの功徳がすべて含まれているのです。そして「妙法五字」を「受持」すれば、自然とお釈迦さまの功徳をすべて私達に譲り受けることができると言うのです。お釈迦さまの功徳をすべて受け取るということは、お釈迦さまと一心同体になるという事ですから「仏」になる、すなわち生きたこの身・このままで「成仏」できるということです。つまり「妙法蓮華経」の五字を「受持」する者は、この世にいながらにして仏の智慧を悟り仏の修行をし、己はもちろんの事、自分以外の全ての人を愛することができ、この身体のままで仏になれるという「即身成仏」できるのです。
それでは「受持する」ということはどういうことでしょうか?
日蓮聖人は「妙法五字」の受持は「身口意(しん・く・い)の三業(さんごう)」によって成されると説かれています。
「身業(しんごう)」とは、「法華経」の教えを身をもって実践すること
「口業(くごう)」とはお題目を一心に唱えること
「意業(いごう)」とは「法華経」の教えを心から信ずること
この三つの業が欠けることなく一つになってはじめて「妙法五字」と一体の「受持」となるのです。
お題目、南無妙法蓮華経にある「南無」とは、身命を投げ出して、命懸けで教えに従って生きる!という決意です。「南無妙法蓮華経」というお題目を唱えるということは「妙法蓮華経」に命懸けで勤める・帰依(きえ)するという事ですから、お題目を心から信じ、唱え、受け保ち、その教えを実践することによって、この世に存在するすべての人が、お釈迦様の功徳を自然と譲り受け「即身成仏」することができるのです。
さぁ自分の為、相手の為、この世の中の人々全員の為、まずは貴方から、私から…お題目「南無妙法蓮華経」をお唱えし皆を敬い、より良い清浄な心を持ち人生の修行にまいしん致しましょう。